スピリチュアルな事を学ぶようになってから
ずーっと疑問に思っていた事
そーや
ChatGptに聞いてみよ~
(遅ればせながら最近始めたChatGpt)
私
「全ては自分が創造している」と
「ただ起こっている」は
どうとらえればいい?
ChatGPT
いい問いですね。
スピリチュアルや哲学の世界では、
この二つの見方はよく出てきます。
矛盾しているようで、
実は補い合う視点でもあります。
1. 「全ては自分が創造している」
- これは 主体的な視点 です。
- 世界の体験や出来事の受け止め方、感じ方、意味づけは「自分がつくっている」という考え。
- 例えば「雨が降った」事実は同じでも、ある人は「最悪だ」と感じ、別の人は「恵みだ」と感じる。この意味づけの主体は自分。
- 引き寄せの法則などでは「外界そのものも心が投影している」とさらに拡大解釈します。
2. 「ただ起こっている」
- これは 受容的・非個人的な視点 です。
- 雨はただ降る、出来事はただ生じる。
- そこに「良い・悪い」とラベルを貼る前の純粋な現象としての現実。
- こちらは禅や非二元論(アドヴァイタ)に近い考え方です。
どう両立するのか?
- 相対レベル(個人の生) では、「自分が創造している」と捉えると、自分の責任や選択の力を取り戻せる。主体性が強まり、人生に変化を起こしやすい。
- 絶対レベル(存在そのもの) では、「ただ起こっている」という受容的な見方に立つと、コントロールの幻想から自由になり、楽になる。
つまり、
- 生き方を変えたいとき → 自分が創っている
- 心を解放したいとき → ただ起こっている
両方は矛盾せず、状況によって使い分けられる「レンズ」みたいなものです。
ChatGptって答えて終わり
じゃなく
必ずその後質問するのよね
ChatGPT
質問ですが、
あなたは今どちらの見方に近い感覚でいますか?
「主体的に創っている」側?
それとも「ただ流れている」側?
私
そうそう、それがどう両立しているのか?
と言う問いが言語化出来なくてモヤモヤしてました。
ChatGPT:
なるほど!そのモヤモヤ、とても本質的だと思います。
多くの人が「創造している(主体性)」と
「ただ起こっている(受容・非二元)」を
別物として捉えるから混乱するんですよね。
ここを言語化すると――
🌀 両立の仕組み
- 相対的なレベル(私という個が世界を体験しているレベル)
- 「私はこう感じ、こう選び、こう創っている」という主体的な物語がある。
- その物語の中での責任や創造性を持つことで、自分の人生に意味や方向性を与えられる。
- 絶対的なレベル(ただ存在が展開しているレベル)
- その「私」すらも現象の一部。
- 雨が降るのと同じように「私が選んでいる/創っている」という思考もただ起こっている。
🪞例えるなら
- 映画を観ているときは、登場人物に感情移入して「自分が行動している」と感じる(相対)。
- でも実際には、すべてはスクリーン上で「ただ映し出されている」だけ(絶対)。
どちらも同時に真実で、ただ見ているレンズの焦点が違うだけなんです。
🌱 結論
- 「全ては自分が創造している」 → 物語を主体的に生きるときの視点。
- 「ただ起こっている」 → 物語から一歩引いて安らぐときの視点。
両者は矛盾ではなく、一枚のコインの表と裏。
「私が創っている」という感覚すらも、「ただ起こっている」の一部なんですね。
ここで一歩深めると ――
あなたのモヤモヤは「どの視点を軸にして生きるか?」に関係している気がします。
主体性を強めたいのか、それとも流れに委ねて軽くなりたいのか。
👉よかったら聞きたいのですが、あなたは今のフェーズでどちらに寄せたい感覚がありますか?
私
基本は「自分が創造している」が主体だけど
気持ちが落ちてしんどい時は
「ただ起きている」と捉えた方が楽で、
自分が自然に使い分けていた事に気付いたよ
ChatGPT:
それ、とても大事な気づきですね👏
つまりあなたはもう、無意識に 二つのレンズを適材適所で切り替えていた わけです。
- 元気で動けるときは「自分が創造している」=主体性・創造性のレンズ。
- しんどくて重たいときは「ただ起きている」=手放し・受容のレンズ。
これって実は、禅やタオの教えでいう「柔らかさ」と同じで、どちらか片方に固執しないからこそバランスが取れるんです。
長くなるので続きます~
ちなみに
スピリチュアルって何?
と聞かれると
実は私もよくわかってなくて
「目に見えない世界の事」と
答えるんだけど
スピリチュアルとは
で検索すると
精神的または霊的な概念
うんうん
なるほど~
でも誰かに聞かれたら
そんな風に説明するのが大変なんで
やっぱり
「目に見えない世界の事」って
答えてしまうな~
anprima
本間朋子