棄教から3年半が経った。
とはいっても私の棄教前は、既に教会にはまったく顔を出していなかったのだけど。それでも、棄教を決意する当時の1年間は苦しみに苦しみ抜いたものだった。
そして今更ながら思う。
信仰って何だろうか。
棄教前は“信仰”があって、棄教後は“信仰”を失った、そんな風に言えるものなのだろうか。
巷にカルトといわれるような“信仰”であっても、良いことも確かにたくさんあった。だから、それは果たして“信仰”だったのだろうか。
棄教後は、かつての“信仰”はなくなってしまった。今は生きるのにたいした理想はないけれど、自分自身に納得して生きることができている。そのことのほうが、はるかに“信仰”的なのではないだろうか。
そんなことを考えてみる。。。
さて、信仰で結婚はできるが、生活は現実である。この言葉は、北海道大学の櫻井義秀教授の言葉である。
そして私も、信仰は理想、家庭は現実だと思っている。
私は、今年は人としての基礎力、人生哲学、習慣の形成、そうしたことを築き上げたいと思って歩んできた。
信仰の理想や義務で「やるべきこと」をするのではなく、自分自身の気持ちから「やりたいこと」をしたいと思って歩んできた。
「やりたいこと」というのは、きわめて地味な事柄である。日々コツコツと積み上げていって、その成果が1年後、2年後に出るようなものである。
そういう日々を送っていると「やりたいこと」を義務的にこなすようになり、それが「やるべきこと」となって日々の生活で繰り返す。そんな日常になってくる。
そして「やるべきこと」が増えていくと、それが「やり残したこと」になり、だんだんモチベーションが下がっていく。そんな日々になる。
現実の生活とは、そんなものだ。
「やりたいこと」を最後までやり遂げることために、さまざまな工夫が必要になる。今年はそんな習慣を形成するための、繰り返しの一年だった。
さて、こういう日々は世俗的なのだろうか。それとも信仰的なのだろうか。
そのどちらかなのかを私は答えられないが、私は今の生き方に納得している。
これが、棄教から3年半経った今の現在地である。
棄教後の人生。それは『棄教!!劇的ビフォーアフター』。では、ピアノ演奏『匠』を聴きながら、さようなら。
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