かつてわたしが統一教会の一信徒だったとき、この世界には絶対的な真の愛の理想があり、いつの日か人類は一つの大家族のような理想世界を築くのだと信じていました。
2019年に棄教した頃のわたしは、それまで人生をかけて信じてきた目標や人生の羅針盤を失い、これから一体何を理想として生きていけば良いかについて、暗中模索したものです。
大いなる理想を抜かして、人間の等身大の姿を直視してみれば、人間という存在の愚かさばかりが目に入ってきます。人類の歴史もこの社会の現実も、不条理なことばかりだからです。
人類が生きているこの世の中は
果たして素晴らしいものなのでしょうか?
棄教したわたしが一人の人間として社会を生きていこうと思ったとき、わたしは上のような質問に対して、何らかの答えを出さなければならなかったように思います。
その答えは、未だにわかりません。けれど、当時のわたしは覚悟を決めました。それは、この世の中を生きる覚悟です。
・ ・ ・
わたしが棄教したばかりだった頃、わたしの心の支えになった一つの言葉があります。
この世は素晴らしい。戦う価値がある。
この言葉は、米国の小説家であるヘミングウェイの言葉です。もともとは、小説『誰がために鐘は鳴る』の中の言葉だったようですね。
当時のわたしはこの言葉に大きな力を得ました。この世の何が素晴らしいのかは実は良くわからないのだけれども、この世界に実在する誰かが「この世は素晴らしい」と考えているのだという事実自体が重要でした。
そして、「戦う価値がある」という言葉は、苦しい現実に向け合うための力をわたしにくれました。努力しようとすることは無駄ではなく、そこに必ず価値があるのだと、わたしの背中を強く押してくれた言葉だったからです。
そんな言葉も、今現在、現実の生活の中に生きていると、どこかに忘れ去りそうになります。たとえば、この社会の“全体”を悲観したり、自分自身の“全体”を否定するといった感情と考え方に捉われるときには、その悪しき現実を当然視し、考えるのをやめ、いつの間に、努力する意義や戦う価値も喪失したような心理状態になっていたりします。
特にわたしは、現在、韓国社会の韓国人の中で現実を生きているものですから、どうせこの国はこうなんだろうという先入観に囚われやすいのです。それは諦めと無力感、それによる思考停止です。
つまりは、
そこで試合終了です。
と、かの安西先生も、かつて言っておりました。というわけで、あきらめずに戦うファイティングスピリット=闘志を見せねばなりません。
記事が何らかの参考になった方は、ぜひ以下をクリック!