統一教会の常識とはこの社会の非常識。この記事は、この社会の常識を当たり前のように叫んでスッキリしようとする記事である
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そういえば、かつて統一教会では、教祖である真のご父母様のみ言葉(指示)により、次から次へと神の摂理という名の信徒たちへのノルマ(献金・伝道)が課せられており、その期限のたび信徒らはノルマ(責任分担)の達成を急かされていた。
やはり統一教会というのは、どこから見ても韓国の宗教であると思う。韓国という国は「早く早く」という意味の言葉「빨리빨리(パルリパルリ)」を是とする国であり、その社会に速度優先の雰囲気があるのはもはや有名な話である。統一教会の教祖様も韓国人である以上、それはやはりせっかちな方であった。
私は、その昔、韓国統一教会の日曜礼拝に参加したことがあるのだが、そこで牧会者が次のようなことを言っていた。
韓国はパルリパルリの国。神様は、この地に天国を造らんとして、どれだけ急いでおられるであろうか。だから、韓国人は神様の対象として、そのような早急な性格を持っているのである。
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さて、人生そんなに生き急いでも仕方ない。たとえば「急がば回れ」という言葉がある。
この言葉は、急ぐのであれば、かえって安全に回り道をしろという言葉のようだが、その言葉の解釈には少しだけ幅があるように思う。それは大きく分ければ、急ぐのか、急がなくても良いのか、どちらの立場なのかという二つがあろう。
ところで、この言葉を統一教会の信徒が解釈するのであれば、それはもう当然、絶対、絶対、ぜぇったーいに、急ぐの一択である。
統一教会の信徒というものは、神様の目的を果たすため、いつもぜぇったーいに急いでやってきた。何せ教祖ご自身が寝る間も惜しんで全力投入してきたと教わっているものだから、それに信徒は絶対的に右に倣えだったのである。
だから信徒が「急がば回れ」を解釈するのであれば、「絶対に急ぐ。でも、もしまっすぐ行けないのであれば、回る、それがもっとも早い」となろう。結局回りながら急ぐのである。それが絶対信仰というものなのである。
さて、統一教会の信者は、何をそんなに急いでいたのだろうか。
その理由は定かでないが、おそらく統一教会というのは戦時中の宗教なのだという思いを私は抱いている。
統一教会が発生する前は、朝鮮半島では日本に対して独立運動という戦いがあったし、そのあとは朝鮮戦争という戦いがあった。続いて、韓国は北朝鮮と対峙して共産主義との戦いを繰り広げていた。
もし戦いによって安全が脅かされていたら、否が応でも人は急がなければいけない。つまり統一教会は生き残るために必死な戦闘モードの宗教なのである。
しかし残念ながら、今はそんな緊急事態ではない。特に家庭に愛と平和をもたらそうとしたら、そんなに急いではいけない。もし無理に急ごうものなら、家庭内のどこかで戦いの火の手が上がるというものだ。
だから私、うすワサビは、今日はただただ平凡に次の一言を静かにささやきたい。
「急がず回れ」
そんなのは当たり前だい、そう。右足出して右足出したら回るのと同じくらい、それは当たり前なのである。
お主、平凡なことを言っているな、と思った方は、そのとおりなので以下を平凡クリック!