統一教会の常識とはこの社会の非常識。この記事は、この社会の常識を当たり前のように叫んでスッキリしようとする記事である
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そういえば、かつて統一教会では、祝福結婚による理想家庭の実現を掲げており、それにより神様の名と教祖の仲介のもとに結婚したたくさんの祝福カップルが生まれていった。さらに、そうして神様の愛のもとで結びついた祝福カップルは決して離婚はしないとも言われていたのであった。
そのようにして生まれた“祝福家庭”が離婚しない理由として、統一教会では、次のような説明がされていたと思う。
この一般社会のカップルは、お互いが好きで結びつき合い、結婚する。しかし、その後、夫婦の間で互いの嫌なところを発見したりすると、簡単に離婚してしまう。とか言いながら、成田離婚の例を仄めかすのが原理講師の常套手段であった。
一方、統一教会の祝福カップルは、神様の愛のもとで結婚する。その夫婦の間においては、夫婦同士の愛よりも、神様への愛がまず優先される。仮に夫婦の間で互いの嫌なところが見えてきたとしても、神様への愛を抱いている限り、神様に背くような離婚はしない。
ここで今回、統一教会の結婚観について家庭連合(統一教会の現名称)のホームページ(link)を参考にしてみると、結婚とは自分が幸せになりたいからするものではなく相手のためにするものだと書いてある。そんな結婚は確かに“理想的”ではある。
さて、統一教会が掲げる理想家庭の実現という結婚観は、すばらしく見えるが、ものすごく高い理想である。もし、そんな愛にあふれた理想家庭が実現できるものなら、もう文句なしに、ぜひとも統一教会の祝福結婚を受けてみたいものである(というか、うすワサビは受けてしまったが)。
もし、そうした結婚するかどうかに悩むのだとしたら、この社会にはその状況を的確に表した便利で俗な言葉がある。それは「そんなに理想が高いと、結婚なんかできないよ」という言葉。