当たり前話し③〜理想が高いと普通は結婚できません〜 | 波立つ海に沈みゆく月 ~旧統一教会さよならブログ~

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統一教会は、だいぶ前から衰退している。二世の未来は全体として明るくない。
これに最後に責任を持つのは、本人と社会だと思ふ。(しばらくブログの本説明文をいじります)

統一教会の常識とはこの社会の非常識。この記事は、この社会の常識当たり前のように叫んでスッキリしようとする記事である


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そういえば、かつて統一教会では、祝福結婚による理想家庭の実現を掲げており、それにより神様の名と教祖の仲介のもとに結婚したたくさんの祝福カップルが生まれていった。さらに、そうして神様の愛のもとで結びついた祝福カップルは決して離婚はしないとも言われていたのであった。

 

そのようにして生まれた“祝福家庭が離婚しない理由として、統一教会では、次のような説明がされていたと思う。

 

この一般社会のカップルは、お互いが好きで結びつき合い、結婚する。しかし、その後、夫婦の間で互いの嫌なところを発見したりすると、簡単に離婚してしまう。とか言いながら、成田離婚の例を仄めかすのが原理講師の常套手段であった。

 

一方、統一教会の祝福カップルは、神様の愛のもとで結婚する。その夫婦の間においては、夫婦同士の愛よりも、神様への愛がまず優先される。仮に夫婦の間で互いの嫌なところが見えてきたとしても、神様への愛を抱いている限り、神様に背くような離婚はしない。

 

ここで今回、統一教会の結婚観について家庭連合(統一教会の現名称)のホームページ(link)を参考にしてみると、結婚とは自分が幸せになりたいからするものではなく相手のためにするものだと書いてある。そんな結婚は確かに“理想的”ではある。

 
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さて、統一教会が掲げる理想家庭の実現という結婚観は、すばらしく見えるが、ものすごく高い理想である。もし、そんな愛にあふれた理想家庭が実現できるものなら、もう文句なしに、ぜひとも統一教会の祝福結婚を受けてみたいものである(というか、うすワサビは受けてしまったが)

 
しかし、結婚なんてものは、人生最大の重要イベント。そんな理想に浮かれて、簡単に「結婚しましょ」なんてことは非常識極まりない。やはり、一度立ち止まって、その“結婚”に本当に責任を持っていけるのかについて、現実的に考えてみるべきである。
 
統一教会の掲げる崇高な家庭理想。それによると、結婚したら、何よりも神様を愛しながら、夫婦は互いが相手のために生き、愛に満ち溢れた家庭を築くのだという。そんな家庭を果たして作っていくことができるだろうか。
 

もし、そうした結婚するかどうかに悩むのだとしたら、この社会にはその状況を的確に表した便利で俗な言葉がある。それは「そんなに理想が高いと、結婚なんかできないよ」という言葉。

 
この社会の良識ある普通の水準の人間であれば、そんな高い家庭理想が掲げられていたら、そんな重い責任は自分には持てないと逃げ出すであろう。
 
その意味で、統一教会の信徒たちとは、そうした普通の水準のはるか斜め上を突破してしまった群れである。果たして信徒たちが、統一教会での結婚に躊躇せずに“常識の壁”を打ち破って、結婚の決意をするようになった理由は一体何だったのであろうか。
 
それは神様への強い愛か、教主である再臨メシアへの絶対的な信仰か、愛ある家庭への憧れか、はたまた理想家庭が必ず実現されるという確信か、それとも、はなから理想家庭など成し遂げる気はないという無責任さか。
 
その理由が何かについては、読者の皆さんの判断に委ねる。私、うすワサビは、陳腐なこの一言だけを声高々に叫びたい。
 
 
「理想が高いと普通は結婚できません。」
 
 
そんなのは当たり前だい、そう。右足出して右足引いたら歩けないのと同じくらい、当たり前なのである。
 

 
 
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