彼らは、間違っていた訳では無く、外の、一般的な家庭の温もりを知らないだけなんだ…。
と僕は、その頃から感じ始め、彼らとの会話も母親との思い出話が多くなって来ていた。
その影響からか、温もりも何も無い僕の部屋を担当しているシスターに対する反感が次第に、部屋の人達に広まっていった。
これが後に実を結び、そのシスターは追放される事となるが、それはもう少し先の話。
1991年大晦日。
この日初めて、紅白というのを見た。
普段が20時就寝なのだが、紅白を見る者に限り24時まで起きてて良い日だった為で単純に寝れないから見ただけ…。
しかし、街中で普通に流れている曲の数々に
もし、一般の家庭に居たら…。そんな事を思い、目頭が熱くなったのが今も忘れられない。
当時は歌には全く興味無かったが、後に音楽ファンになった最初のキッカケがこれだったりします。
そして、6月22日に親子離れ離れになり、半年近く別々の施設で過ごしながら1991年は終わりを告げました。
年が明けて1992年。
施設の中で、だいぶ同じ部屋の人達と打ち解けるようになった僕に、
「これ、やってみないか?」
と、中学生がくれたのは、中学の数学の問題集。
僕は実は、転校してから学校のテストは100点以外の経験が無く、考え方こそ対立していたものの、僕の頭脳には注目していたとの事でした。
挑戦状は受けるのが礼儀
と、当時から既に思っていた為、その問題集をやる事にして、勉強時間の大半をそれに注ぎ込んでいた。
…勿論、シスターには説教され殴られました。
「歳相応の事だけやってろ、ボケが」
ですって。僕を庇ってくれた中学生も殴られ二人して、ふてくされた顔を浮かべた物です。
そして、
「お前は此処に居てはいけない。母親が絶対来てくれる筈だから、そしたら行け。
勉強を重ねて官僚になって、この社会の見えない部分を変えてくれ。」
と、その彼は僕に言った。
惨めな想いをしたくない。
僕はそれだけの想いで、青い時代を生き抜くのですが、この言葉の影響も凄く大きかったのです。
―――――――――――――――
(以下、追記です)
学費と家庭の事情に阻まれて、官僚とはなれませんでしたが、日本の最高学府までは辿り着けました(詳しくは第2~3章で)。
惨めな想いはしたくない
これは今でも教訓として残っていて、故に前向きに頑張れるんですよね…。
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