中島父子最期の地
この碑は 地元有志の手で昭和四十九年 旧松川中学校 (函館市中島町) 前のグリーンベルト横に建てられたものである
中島三郎助 (四十九歳で死亡) は浦賀与力で ペリー艦隊が来航した時 最初に外国船に乗り込み交渉した気骨のある人物
安政二年 (一八五五年) 長崎海軍伝書所第一期生として機関術 砲術を学び 勝海舟とは同期で 榎本武揚の一年先輩である
また 俳人としても知られ 雅号を木鶏と称し 多くの秀作を残した
ほととぎす われも血を吐く思いかな
の句がある
箱館戦争では箱館奉行並に推され 千代ヶ岡陣屋を守り 最後まで降伏を拒絶し 長男恒太朗 (二十二歳) 二男英 (ふさ) 次郎 (十九歳) ともども壮烈な戦士を遂げ 今に“中島町”の町名を残した
三男与曽八は 父の遺志を継ぎ 後に海軍機関中将となった
※北海道新聞社発行 はこだて歴史散歩 から引用しました
※上の白黒写真は はこだて歴史散歩 から拝借しました
※はこだて歴史散歩 昭和57年(1982年)5月25日 初版発行
10月10日の写真です
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