「マスクをしないで大丈夫なの?」
「もともとマスクする習慣ないし、今までのところ、なんともないよ」
そういえば、私も今日はマスクを付けていなかった。
十年振りにMと会うために自宅を出るとき、付け忘れたのだ。
今私たちがいるのはヨーロッパ風のバルらしき店である。黒い鉄のフレームの細長い背もたれのある椅子、古い木のテーブル、のっぺりとした白壁、朧な橙色の照明、全体が釣鐘状になった狭い穴倉のような店なのだ。
Mは私にデジタルカメラを向けてシャッターを切った。
撮られた写真には確かに自分が写っているのだが、背景が違う。遊園地らしき屋外で撮られた写真であり、観覧車の鉄骨の黒いシルエットを背景にして、煙草を指にはさんで得意げな私が写ったモノクロ写真である。
Mと他愛もない話をして、私はもう帰ろうと思う。
磨き上げた板敷きの廊下を歩くと、広い座敷があり、Mの死んだ父親が囲炉裏端で胡坐をかいていた。私は背中を丸めたMの父に挨拶して、廊下の奥にある便所で掃除をしているMに、「もう帰るよ」と伝えて外に出る。
長い道のりを自転車で帰る。狭い坂道の左右に折り重なるように並んだ家々の眼のような窓は見慣れたものに思えると同時に見知らぬものにも見える。帰りの道順を今にも忘れてしまいそうで私は怖かった。