久しぶりにテーマ「テレビ/映画」で記事を書いてみたい。昨年は1回しかやらなかった。それも、NHKのニュースがプロパガンダやってたぞーという異例な書き口のやつだけ。通常このテーマでやってるのは、そういうのじゃないんです。もっとフツーに、見た番組や作品のレビューを綴るやつ・・・・・・まぁ、うちでやったらフツーじゃ済まなくなるんですけども。 (;´▽`A``
 このブログを始めた当時のことを思えば、本来ならテレビや映画のネタが中心になっていくんだろうなーとイメージしていたはず。それが実際には意外と伸びてないんですよ、このテーマ。

 

 

 当ブログでときどきやってたのが、トーク番組などの文字起こし。きょうはそれをやります。
 ちょっと遅くなってしまいましたが、これは昨年8月15日(終戦の日)の午後1時から放送された『
徹子の部屋』より。ただし内容的には過去の放送分のハイライトをいくつか繋げたものなので、実質、再放送といっていい。だがしかし、徹子の部屋にしては非常に濃かった。何度だって再放送していいのではないでしょうか、これだったら。スターさんが体験した戦争の記憶、その貴重な証言を聞くことができたのですから。
 これは番組を見なかった人にも伝えなければいけないと判断、ここに文字起こしいたします。

 

 

爆弾

 

三波春夫「出征し最前線で敵兵と戦い」 -1977年5月9日放送-】

徹子「あたくしがね、とってもあの・・・(三波さんが)お持ちの人生のなかでビックリしたのは、たいへんな戦争に出征なさいましてね、もうホントに最前線にいらしたわけでしょ?」
三波「ええ、最前線でしたね」
徹子「どちらで?」
三波「あのねー・・・黒竜江、に近いとこなんですね。黒竜江という大きい川がありますけどもね、ですからソ満国境に近いところだったんですね。とにかく100日間、この陣地を我々は守らなきゃならないという、そういう命令なんですよ。ところがとんでもない、5日間でもうお手上げですよ。退却しなくちゃならない(笑)。ヒドかったですよ、砲弾の音ってのが凄まじかったですね。もう戦員が悲鳴を上げるわけですよね」
徹子「じゃあもう撃たれたりとか、そういう・・・」
三波「ええ。『ああっ!』って言ったら、まったく、肩から首からスポーッとね、キレイになくなっちゃうんですよね」
徹子「なん・・・爆弾?」
三波「爆風ですね、ええ」
徹子「それが目の前・・・」
三波「目の前ですからね。もう、じつに・・・ビックリですね」
徹子「でもそのときですか、こんどソ連のほうの若い兵隊さんが・・・」
三波「それはね、あれは何日だったかなぁ・・・たしか14日の朝だったと思いますけどね」
徹子「何月の?」
三波「えー・・・、8月14日!」
徹子「あらぁ、じゃ、もう・・・」
三波「ええ、終戦のときですよね。ボクらぜんぜん知らんわけですよ。終戦をやっと知ったのが9月の9日の夜でした」
徹子「まぁ・・・」
三波「で、そんときにね、ロシア語が聞こえるわけですよね。目の前に来るんですよ。斥候がね、斥候隊がね(笑)。5~6人来たんでしょうかね、あれ。入り込んできちゃったんですよ。『あ、来やがった』と思ってね。で、ちょうど手榴弾持ってましたからね・・・(ピンを外す仕草)・・・投げたわけですよ。投げたらそれが本当に朝の戦闘開始の音でしたね」
徹子「それは三波さんがお投げになった・・・?」
三波「投げた。そしたら、(笑顔で)ビュウーーーーーーッ・・・という、独特の手榴弾の音でね。それから14日の激戦の火ぶたが切られましたけどね。そんとき最期までロシアの兵隊がねぇ、『ママー、ママ』って、母親の名前を呼んでました。日本の兵隊も『お母さん』つってね、ボクの戦友はね、ボクにしっかりしがみつきながらね、『お母さんお母さん、痛いよ痛いよ』って言いながら死んでいきましたけどね」
徹子「ソ連兵が、やられ・・・ケガをしたまま・・・」
三波「ソ連兵はやはり、『ママ-、ママー』・・・とーうとう最期に声が途切れていっちゃいましたね」
徹子「そんな近くで?」
三波「はあ。まったく。だからそんときにはなんという・・・う~ん、戦争そのものの真っ只中ですが、も~う、何も考える暇ありませんね。自分がとにかく、生きなきゃいけないんだ、相手を殺さなきゃならないんだ、ってことですからね。ところがまったく顔も知らなきゃ名前も知らないやつと戦うんだから戦争なんてじつに愚かなものだと思いましたよ。で、ボクは射撃が上手かったせいですかね、ボクが撃つ弾がよく当たるんですよ」
徹子「はぁ・・・(ポカン顔)」
三波「そうしたらこんどは、ソ連のほうでは、飛行機を1台出しましてね。『あのトーチカにいるのは、たいへん頑強そうなやつがいる』ってんでね、ボクに向かって爆弾落としました。ホントに、まん丸い炭団みたいなのがスーッと来るわけですよ」
徹子「エーッ!」
三波「それを見た瞬間にもうダメだったんですがね、ブォーッとそのまま。3時間くらいよく寝てましたね。もう、ぜんぶコンクリート頭から被っちゃいましてね」
徹子「おケガは?」
三波「ケガはね、わずかだっ・・・(手の甲を指して)ここに少し傷が残ってますが」
徹子「それだけ」
三波「それだけ。助かった。部隊長も誰もいないんですよ、ボクが目が覚めたら。もう北詰(三波春夫の本名)は死んだものだと思って、みんな逃げていっちゃったわけですよ(笑顔)」
徹子「あらぁ・・・。目が覚めておひとり? 寂しかったとか、そういうとき・・・(目を丸くして、身を乗り出す姿勢になっている)」
三波「もーう、そりゃもう寂しいも何も通り越してね、もう、うつろですね。もう背中は寒い、足の裏は寒いね。と、かすかに大砲の音がドーンと遠くね、祭りの花火の音みたいに聞こえるんですよ。足の裏から聞こえるもんですね、音って。そう思いました。耳が・・・あ、これはもう何も聞かれなくなったなと思いましたよ、そんときに(笑顔)」
徹子「爆音で鼓膜がやられて・・・」
三波「そうです、鼓膜がぜんぜんやられて」
徹子「そいでそれからどうなさったの?」
三波「最後の脱出済みの班に、ボクは合流したわけです。そしたら『おまえ生きてたのか』って、ビックリして班長がね(笑)。『なんだ、おまえあそこで死んだのかと思って』って。そのころから少ーし聞こえだしたんですよ。3時間か4時間経ってましたけどね。それで、脱出したんです。戦友たちを残してね、辛かったですよ! 『連れてってくれー、連れてってくれー』って言うんですよ」
徹子「まだおケガの、残ってらっしゃる方が・・・?」
三波「ケガ人がもの凄いですから。ただもう息があるだけですよ。意識は『連れてってくれ』って。それでね、もう『迎えに来るからな』って、こう触ったらね、頭がね、ザラザラ。血でね。『こいつはもう助からんなと思いながらね、顔見てもわかんない。誰が誰だか。それから脱出しました」
徹子「でもそういう、いま『戻ってくるからな』と言いながらお出になるときの・・・」
三波「ええ、辛かったですねえ! うーん、でも自分は助からなきゃならないし。それから我々の敗戦行軍が始まって、最後に知ったときは、ボクの母親の9月9日の命日でした。その敗戦を知ったときにね、ボクは母親に抱かれて何か言われてる夢を見ました。ポッと目が覚めたら『おいっ、日本は降伏したぞ。戦争は終わった』っていうのを聞いたときにね、なんとも言えない気持ちでしたね」

●~*

 まさに九死に一生を得る体験をしたのにもかかわらず笑顔交じりで淡々と語る三波さんに対し、見たこともないような神妙な顔つきの徹子。

 あの徹子が、ほとんどしゃべれないのだ。誰が相手であっても自分のペースを崩さない徹子が、まったく主導権を握れない様はかなり新鮮。ちょっと信じられない画づらであった。

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テレビリアルタイム当時の動画がありました。このたびのハイライト版では編集で大幅に端折られていますし、また徹子や三波さんの表情は文字起こしでは伝えきれません。お時間ある方はご覧になってみてください。

 

病院

 

加藤治子「終戦・・・置き去りの傷病兵と」 -2004年8月11日放送-】

徹子「戦争中は、あたしたちがいままで聞いたことないよな、(加藤治子を指して)女医さんではいらしたんだそうですけども、知らないような名前の仕事を戦争中はやらされていたっていうことなんで・・・」
加藤「ええ、あの・・・ザッシフっていうんです」
徹子「どういう字、書くんですかそれ?」
加藤「あの・・・雑・・・(画面の端に“雑使婦”と表示されることに気づき)そうそう」
徹子「雑に使う女(笑)」
加藤「なんでも、やるんです。那須に疎開しましてね、そいで湯本っていう温泉街のお宿がぜんぶ陸軍病院になってたんです。あのころ学徒出陣があって、小ちゃい人たちは学童生活でしょ? 私たちも、何かお国のために働かなきゃならなかったわけです。徴用ってのがあって、陸軍病院の雑使婦ていうのになったんです」
徹子「そうすると、戦場やなんかでケガをした兵隊さんがそこへ入っている、そこのなかで雑使婦を」
加藤「そうです。雑使婦はですね、如何なることをせんぶするんですよ(笑)。白衣の洗濯から、繕いから、地下足袋の洗うのから、いろんなことぜんぶするんです」
徹子「慰めたりはしないの?」
加藤「それ、そんな余裕はないです。食べるものもないわけですから」
徹子「そういうふうにやってらっしゃったんですけど、それで終戦になった」
加藤「ええ。それで戦争が終わったときに私たちを集めて、もしアメリカ兵が来たらば、戦って死ねと言うんですよね。困っちゃったなと思ってね。せっかく平和になって、これから灯りもつけて休めるのになんて思ってたから。いや困っちゃったなと思ったんですけど、お話を聞くともういろいろなことになって、青酸カリを薬局から、ちょっと分けていただいて持ってましたね」
徹子「いざとなったら、アメリカ兵が来たら辱めを受ける前に死になさいということなんですね」
加藤「いや、死になさいとは言わないんです。戦って死ねって言うわけです。私は怖ろしいから、何かあったら、その青酸カリを飲もうと思ってたんですね。そんなことしてるうちにね、何日か経ったら、もう大きなトラックに、どこにあったかわからないんですけど物資をぜんぶまいさん(?)して、お家のほうへ帰っちゃったんですよ。偉い人たちはみんな。だからもうクルマってものがないわけですよね。残された傷病兵の方たちは手や脚のない方とかっていらっしゃるわけでしょ。だから、やっと、探して、お米があったんでそれでごはんを炊いておむすびを作って、とにかく、お家に少しでも近いところへ行ってくださいって言って。クルマも何もないですから・・・」
徹子「物資をどこにあったかわかんないトラックにいっぱい積んでね、院長さんやいらした人が逃げていって残されたのはね、雑使婦みたいな本当に素人の人とケガした兵隊さんだけっていうのは、ずいぶん酷い話ですね」
加藤「そうですね」
徹子「戦争終わったときはみんな、お別れして帰んなきゃいけなかった。そしてみんながどんなふうにして生きていったのかと思うとホントに、一人ひとりのことを私は見たわけじゃないけど、ホントに胸がいっぱいになりますよね(涙声)」
加藤「ええ。そういうお姿でね、私たちが作ったおむすびを持って杖をついてね、手を振って歩いてらした後ろ姿っていうのを、やっぱり忘れられませんね。だからそういうことを一つひとつのことを考えると、とにかく、世界が平和であればいいのにと思いますね、心から」

●~*

 

飛行機

 

高峰秀子「終戦の日・・・飛び立った特攻隊」 -1989年8月14日放送-】

徹子「きょうのお客さまは、大スターでいらっしゃいました。そして千葉の館山で、あの日もロケをしていらっしゃいました。あんな最中に映画を作っていたっていうのだけでもわたくしは、驚いてしまいます(と紹介しておじぎ)」
高峰「よろしく」
徹子「高峰さんは、昭和の年号とお年がおんなじだったと・・・」
高峰「そうなんですよ! もう、20年は二十歳だったし、16年は16歳。とてもわかりよかったけどね、とっても困ってるのよね、今年から。1歳に戻っちゃって。きょうは久しぶりにお目にかかって嬉しいけど、あんまり、話題が嬉しく、ないようなことでちょっと憂鬱ですね」
徹子「でもやっぱり、これからどんどん少なくなっていってね、戦争をご存知ない方たちの数のほうが、多いぐらいです」
高峰「そう。そうだしね、もう戦後は終わった終わったってね、戦後は終わったかもしれませんよ。でも、戦前なのよ、もうね。“後”が終われば“前”なのよ。だから決してね、他人ごとじゃないと私は思うんだけど、そういうこと言うと、古いババアだのって言われるからね、あんまり言いたくないけど、ぜったいに、戦後が終われば戦前なのよ」
徹子「終戦の日は、千葉の館山にいらしたんですって?」
高峰「うん、私はね、さっき仰ったけど、そのころでも映画撮っててビックリしたって仰ったけどね、そのころはいわゆる兵隊モノが多かったのね。私のその映画も、アメリカヨーソローって・・・ヨーソローっていうのは海軍ことばで真っすぐっていうことなのね。アメリカへ真っすぐっていう、特攻隊の映画だったのよ。特攻隊員の恋人の役だったのよ。でも、ヨーソローって真っすぐ来たのはさ、向こうからこっちへ来ちゃったわけですよね」
徹子「千葉のほう危なかったですよね」
高峰「いちっばん危ないところ行っちゃった! ふたつあったの、航空隊が」
徹子「七里ですよね? あそこでロケを・・・」
高峰「うん。ですからそこへ当然、向こうは来るわけですよ」
徹子「アメリカの」
高峰「うん、アメリカの大きい船・・・もう見えるのね」
徹子「航空母艦」
高峰「うん。そこからもう、キイイイーって飛んでくるんです、何百機って」
徹子「そう・・・」
高峰「それで撮影したり、しなかったり・・・なにしろ、たいへん忙しかったんですよね。で、たまたま敗戦の日っていうのは慰問に行ったわけ。両方の隊へね」
徹子「特攻隊の人がそこにいるんですか?」
高峰「うん、ばっかり」
徹子「特攻・・・」
高峰「ばっかり!」
徹子「若いのね、みん・・・いまの方たち想像つかないかもしれないけど、若いんでしょ~う?」
高峰「若い! もう、少年ですよね」
徹子「歌を歌ったりなさるの?」
高峰「そうなの。長谷川一夫さんは踊り、山田五十鈴さんは清元やって、あたしは・・・『お山の杉の子』を歌って。いろいろ1時間ぐらいのショーを見せて」
徹子「でも最後はかならず・・・」
高峰「『同期の桜』なんてのを歌って・・・歌うんだけど、みんな歌い出すのね、その人たちね」
徹子「特攻隊の人たちが」
高峰「うん、だけどね、1番の終わりぐらいになるとね、だんだんだんだん静かになって泣くの。でね、もう、あたしもね、歌えなかったけど後ろ向いちゃってね」
徹子「はあ・・・」
高峰「それで慰問が済んで、じゃあみなさんお元気でっていうことは言えない。だって明日、飛び立ってって、死んじゃうかもしれないから。じゃあサヨナラって言うのも変でしょ。なんにも言えなかったですね。お別れするときがいちばん辛くって、ただ手を振って向こうも手を振って」
徹子「向こうも、泣いてたの?」
高峰「泣いてたねぇ、やっぱり泣いてた」
徹子「(震え声で)だってもう死ぬのわかってるんですもんねぇ」
高峰「わかってるのよ!」
徹子「とにかくそれでそういう状況で慰問してらしたでしょ? そいで8月15日での玉音放送・・・」
高峰「そうです。あの、こう・・・ガー、グィーっていっててぜんぜんわからないんですよ。そいで終わったら将校がひとりね、台の上へ飛び上がって『というわけであるから一生懸命、今後、頑張らなけりゃいけない』って言ったんですよ。で、みんな『・・・え、どして? なんだかわかんなかったね』って言いながら、みんなわからない。その特攻隊員もわからない。わからないままにバラバラバラバラ解散したのね。そしたら宿屋ではキチッと聞こえたらしいのね、残ってる撮影のスタッフの人たちは。慰問に加わらなかった人たちね。その人たちがみんな玄関の前のラジオの前、ベチャーッて座ったまんまね、(ヘコんだ顔して)・・・てなってるのね。ああ、これは、じゃあ・・・だからね、なんかピンとこないってかんじだったわ、ホンットに」
徹子「それから大騒ぎには?」
高峰「それで、食事はしたんだか、そんなことは忘れてしまいましたけど、夜・・・とにかく15日、暑いでしょ、8月だから。蚊帳吊って、あたしはひとりで寝てたのね。そしたらね、12時ごろにンンンンンン~・・・宿の上をね、特攻機が宿の屋根スレスレに出ていくんですよ、毎日」
徹子「そのホントに、出ていった人たちはね」
高峰「そうなの。そいでね・・・また出ていくのよね、12時すぎに。えーっ、戦争、終わったんじゃないの! ・・・と思ったんだけど。それが1台や5台や10機じゃないんですよ。どんどんどんどん飛んでいくんですよ。どうしたのかと思ったら、結局その若い特攻隊員も、どうしていいかわかんなくなった。死ぬんだぞと、ね。天皇陛下のために死ぬんだ、それしか教わってないでしょ? どうしていいの、明日から。みんなね、爆弾を抱いてね、みんな、相手のない海へ飛んでいってしまったの」
徹子「死んだの? それで・・・」
高峰「当たり前じゃない、帰ってこれないもん。特攻機っていうのは帰ってくるように出来ていませんよ」
徹子「まぁ・・・」
高峰「だからそれは私ね・・・・・・どうにもならない感情ってあるもんね! ああー、戦争が終わった、その若い人たちはね、もう目がこういうふう(両手で左右の視界を狭めるゼスチャーをしながら)に教育されてるから仕方がない。でもそのお母さんたち! ・・・どん-な気持ちで。そのお母さん。家族。あとでね、戦争が済んだのに亡くなっちゃったって聞いたときの気持ち、これ取り返しつかないね。私、そのこといまでも忘れませんよ」
徹子「松山善三さん、(高峰秀子の)ご主人のお兄さんも亡くなったんですよね、戦争で」
高峰「そうなのよ、ニューギニアで。お骨が帰ってきたんだけど、ぜんぜん空気のように軽くてね、振ったらサラサラって砂の音がしたって。かわいそうだったね。やっぱり砂じゃ・・・納得できないんだわ。だから、母親、亡くなりましたけどね、松山の。でも、きっと亡くなるまで、いつか帰ってくるんじゃないかと思っていたと思いますよ。こんなことして、こうやったら砂がサラサラって中で・・・砂しか入ってないものをもらって『ああ、これ息子だ』と思いますか! ・・・(ハンカチを取り出して徹子へ渡しながら)かわいそう」

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 徹子、涙腺崩壊。「コマーシャル」と言うのがやっとというところまで追い込まれる徹子。
 冒頭で高峰さんが「1歳に戻っちゃって」と言ったのは、この年から年号が平成になったから・・・という意味。しかし息継ぎする間もなく真顔で話し続け、徹子も例によってスルーしたので笑いにはなりませんでした。汗

 個人的に、高峰さんは若いころの姿なら知っていましたが、この時期の姿はあまり知りませんでした。いかにも昭和の少し気の強そうなおばちゃんていう佇まいに、新鮮さを感じたり、なんともいえぬ懐かしさを感じたり。

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ドンッ

 

三代目・江戸家猫八「原爆の地獄・・・罪なき人々が」 -1978年8月15日放送-】

徹子「ヒロシマの原爆で被爆なさったっていうお話はいままだなさらなかったんですが、やはりいま話しておかなくちゃということで、お話、いま方々でもしてらしてるんですけれども」
猫八「どうも」
徹子「本当にお元気そうで」
猫八「最近はもう、その影響はまったくないと言っていいくらいですね」
徹子「そうですかぁ。それもまた、被爆をなさってて、被爆者手帳もお持ちでらっしゃる・・・」
猫八「ええ、38年目に取りました」
徹子「兵隊さんでいらっしゃって、爆心地から2㎞ぐらいのところにいらっしゃった」
猫八「そうですね、宇品の港ですからね、わたくしは。船舶兵ですから。あと、つまり、市内を整備っていうか、片づけたっていうかね。もちろん、死体が累々としていましたからね」
徹子「あのときは、ヒロシマの原爆では二十数万人の方が一瞬にして亡くなったわけですから。そのみなさんの死体を片づけるだけでも・・・」
猫八「たいへんな作業で」
徹子「その作業をぜんぶなさった?」
猫八「やりました」
徹子「その原爆の炸裂した瞬間・・・」
猫八「ゴーンゴーンゴーン・・・ボーイングB29が来たわけですよ。そしたらね、40代のね、二等兵がね・・・(襟元を指して)一ツ星しかない」
徹子「40歳代の」
猫八「そう。あとでみんな帰らされた人たちですよ。おとっつぁんみたいな人がね、帰ってきて『兵長殿、また爆撃機が、何か、参りました』って言うんですよ(猫八さんの階級が兵長だったらしい)。『落下傘が、なんか、落ちました』って言うんですよ。それが原爆なんですよ。その日はお天気でしたよ。8月6日の8時15分でしょ? 晴天ですよ。もう太陽がさんさんと降り注いでいる。それよりもっと明るかったんですよ! 白い光線てよく言いますけどね、パア――――――ッ! と明るくなったの。なんだろうと私、思ってね。表へ飛び出した途端に、ド―――――ン! と音がしたの。後ろから爆風が、ブワーーーッ! と来た。2mぐらい吹き飛ばされましたよ。これはなんかね、なんだかわかんないけど怖いなと思って。臆病ですからね。すぐ、防空壕へ入って出てこなかったんですよ。そしたら表で作業してた班長や兵士が戻ってきたんですよ。『岡田(猫八さんの本名)、たしか、外出の支度してウロウロしてたが、どうしたかなアイツ』『アイツはズルいからな。どっかへ逃げちゃったんじゃないか』なんて噂してるところへ『ハイ、ここにおります』って出ていったんですよ、防空壕から。『やっぱりコノヤロー、この中へ隠れてやがった』って。『とにかく外出の支度してやるから表へ行け』って。『見てこい』って」
徹子「それから、二十数万人の方がお亡くなりになったところをお片づけになるという・・・」
猫八「だから町へ出たときに、真っ黒に焼けただれたお母さんが赤ん坊を抱いて、それでもうとにかく・・・まだ小さい子いるでしょう、ほかに。だから子どもの名を呼ぶね、おじいちゃんが孫の名を呼ぶ、奥さんが旦那の名前を呼びながら右往左往している! ・・・まぁ地獄ですね。地獄ですよ! ぜんっぶ黒いですから。真っ黒ですよ、焼けたのが。それで川の中へ熱くて逃げた人が、そのまんまのこういうカタチ(両手は広げ、左腕を腹部、右腕は横へ真っすぐ伸ばしてるポーズ)で、お亡くなりになってましたよ」
徹子「・・・(涙)」
猫八「あたし、いま思い出してもね、泣けてきますよ(涙を堪えきれない様子)。そりゃあもう二十何万という人でしょう。なんーの罪もない人でしょう。ボクらは兵隊ですからね。そのあと片づけにいくとね、あの、ヤケドでただれた人が道端へずーーーーーーーっと寝かされてんですよ。なかには目の見えない方がいらっしゃる。兵隊の足音が聞こえてくると『兵隊さん、助けて。水ちょうだい。水ください』って言うの。だけど水あげられないんですよ。『軍医殿、水をやってもよかありますか?』って『いかん!』って。水やったら、もうほら、亡くなっちゃうでしょう? だから『いかん!』って言うんですよ。でも、もう、この方たちは、ね、どうにもならないってことがわかりますからね。目でボクは、軍医殿に・・・軍医殿に『飲ませろ!』とは言えないでしょ。(そろそろ限界の様子)目だけで『・・・・・・(「ウン、ウン」「察して」という合図?)』、これでしょ? もうあったかくなっちゃった水筒の水をやったら『兵隊さん、ありがとう。おいしかったですよ』ってね。そのままですよ。何人も、何人も、私の水筒の水を飲んで息を引き取りましたよ! ・・・ねぇ、だから、私は、いまだから言えますけど、その人たちがね、手を握りしめて、いま言っていいか悪いかわかりませんけど、『兵隊さん、仇をとってください』って、みんな亡くなりましたよ! ・・・まぁとにかく、ボクは、その地獄を見てきましたよね。それからその死体をぜんぶ、トラックへ、積んで、太田川の堤防へ積み上げてるんですよ。どうしようもないでしょう、だって。それで、ガソリンをかけて、荼毘に付したわけですよ。そんなことってありませんよね」
徹子「・・・(完全に戦意喪失状態)」
猫八「ですからね、ふたたび、戦争はやっちゃいけません! ね。戦争はいけません・・・」

●~*

 徹子は途中からまったくしゃべれなくなってしまいました。『ザ・ベストテン』の放送開始時期にこんな徹子が見れてたなんて、かなり驚く。
 ただ、「死体をぜんぶ、トラックへ・・・」のあたりから、話の内容にそぐわない番組テーマ曲「ルールル、ルルルルールル・・・♪」が流れ始めたのは如何なものかと思わなくもなかった。せめて短調にアレンジしたヴァージョンがあればよかったのに。
汗

●~*

 

メモ

 

 ゲストはいずれも既に故人です。そして、どの話も生々しい。戦争を知ってる世代が残り少なくなっているが、やはりその世代の方々の話は聞いておくべきだとつくづく思いました。
 4名、みんな聞きどころがある。みんな聞く価値があると思う。だがあえてひとつポイントを挙げるとしたら、猫八さんの話。まさか猫八さんが、ヒロシマ原爆とそんなにゆかりのある方だったとは驚きでした。
 まず原爆といえば、近年になって「投下」ではなく「地上起爆説」というのをチラホラ見かけるようになった。本当のことは私にもわかりません。ただ猫八さんの証言によりますと、原爆が落ちてくるのを目撃したことになりますね。証言者ですね。どっちなんだろうなぁ?
 そしていちばん考えさせられたのが「死が確実な人に水を与えられるか?」問題だ。『はだしのゲン』でもやってたやつね。いずれにしても死は近いのだが、水を与えずにちょっとでも長生きさせるか、即死するけど飲ませてあげるか? 自分だったら後者にしたいけど、それはすなわち自分の手でトドメを刺すことを意味するわけで。そりゃ猫八さん、辛いですよね。

 いまの我が国も、それとおんなじことが起こってるんじゃありませんか? 老人を預かる病院や施設が、感染症を怖れるあまり家族との面会に厳しい制限を設けてるアレですよ。

 老い先短い人たちの楽しみを奪ってまで長生きさせたいか? そしてそれは全体に強いるようなことなんだろうか? そもそも、あんたらが怖れている感染症とやらの正体は、本当に怖れるに値する殺人ウイルスなんだろうか?

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 ――そんなふうにね、今回は重い内容でやってきましたけれども。ことわっておきますが通常モードの『徹子の部屋』は、もっとお気ラクに見れる番組である。トークの内容も、どうでもいいものが多い。いっぽうで同番組は“芸人殺し”と呼ばれるキラーな顔を持ち、ゲストが芸人だった場合はことごとく打ちひしがれてスタジオを後にすることで有名である。
 参考までににUncyclopediaで徹子の部屋のページを見ると、同番組を以下のような記述で紹介しているくだりがある。

 

徹子の部屋(てつこ-へや)とは、日本の最終兵器こと黒柳徹子が支配人兼ホステスを務めるヒッグス粒子の性質の一つで有るソラーニン空間粘性を利用した5次元構造の超狭小空間のダンガン構造中の粒子整合特性の擬似レヒトール空間を映したトーク番組。

この空間に召還された者の多くが死に至る事は有名であり、これ迄推定で数百人以上の死者が出ている為、リアルDEATH NOTEとして密かに恐れられている。この事は最も多くの死人を出したTV番組としてギネスブックに記載されており、世界的にも有名である。

 

 また黒柳徹子についての概要も、以下のとおり書かれてある。

 

黒柳 徹子(くろやなぎ てつこ)は、人型最終決戦兵器であるエヴァンゲリオンのプロトタイプの一つ。1933年に、国連の非公開組織である特務機関NERVにより極秘裏に建造された。正式名称は汎用人型決戦兵器人造人間黒柳徹子(はんようひとがたけっせんへいきじんぞうにんげんくろやなぎてつこ)。体高はhydeより大きい(推定1.057hyde、オニオンヘッド部を合わせると推定1.096hyde程度になる)。自陣にいる長嶋茂雄を「はあ」の一言しか出させない程打ち負かすことも可能であり、現在、地上で確認されている唯一の対抗兵器はローラのみである。

 

 おお、なんということであろうか。本記事は戦争・反戦にまつわる内容になってはいるが、じつは徹子および徹子の部屋じたいが「兵器」だったのです。

 ただUncyclopediaの記述によると、徹子の黒柳徹子としての能力に対抗できるのはローラが唯一とされてはいるが、本記事で登場した4名も徹子の黒柳徹子としての能力を封じ込めているため、この5人は徹子キラーとして同格なのでありましょうね。

 このことから、ローラは一見して若く映るのかもしれないが、じつはそこそこ高齢で、戦争体験者の可能性も浮上してきたといえるのではないだろうか。ほかの4名が他界されているいま、どうやらローラが徹子への最後の対抗兵器であることには間違いなさそうだ。

 なのでローラが次回『徹子の部屋』へ出演する際には、おそらく辛くて隠し続けていたのであろう戦争体験を語っていただければと切に願う。オッケー?OK

 

 

 ありゃ、もしかしてそんなことはみんな知ってましたか? これは野暮でござんしたね。

 やっぱり、うちでやったらフツーじゃ済まなくなるようで。ルールル、ルルルルールル、ルルル・・・♪