今日は、どうしてもどうしても書くテーマが定まりません。
 まったくネタがないわけではないのですが、アレを書くには時期尚早だし、リブログしたい記事をみつけたんだけど、やるべきかどうかまだ迷ってる状態だし・・・と、だいぶ困っておりまして。
 そこでフッと思いついたのが、昨年(2020年)12月19日放送分のトーク番組『ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~』の書き起こし。過去には衣笠祥雄さんの回で記事にしたことがありました。
 今回は小林亜星さんの回です。かねてより私は小林さんの作曲家としての顔に興味があったのですが、そのあたりを番組内で訊き出すかたちになっております。ナルホドなーと思うようなコメントも多々ありましたんで、ここに掲載したいと思います。

 

ホテル


 冒頭から『日立の樹』『ガッチャマンの歌』『北の宿から』『あわてんぼうのサンタクロース』・・・と、小林さんの代表作が1フレーズずつ流される。さらに映像は、これからおこなわれるインタビューの舞台となったANAインターコンチネンタルホテル東京の外観が映される。

 このホテルには個人的な思い出がある。「東京全日空ホテル」と呼ばれていた時期に、ときどき訪れていた場所でした。その外観の撮影もよくやってたので、どの位置から撮影したら映えるだろうかと考えたであろうカメラマンの気持ちがわかり、ニヤリとさせられた。

 


 これらをBGMに、MCが厳かな口調で語り始める。


――CM、アニメ、はては演歌と、その人が織り上げたメロディは多彩をきわめる。手がけた楽曲、これまでに8000曲あまり。いったい誰だか、おわかりだろうか?――


 次の瞬間、ホテル内の某所で突っ立っている小林さんの姿が数秒、映し出される。ちょっと締まらない画ヅラ(笑)。そこへインタビュアーの小島慶子氏が登場。葬式の参列者のように黒いスーツ着用の小林さんに対し、薄い素材のベージュというか白っぽい上下(何という名称なのかはわからない)をまとっている。

小島「小林さんってお呼びするより亜星さんとお呼びしたほうがテレビでも見慣れているので、亜星さんでよろしいですか?」
小林「もうね、小学生のときから小林くんて呼ばれたことないの」
「(笑)じゃあ亜星さんで失礼します」

 ・・・というかんじでインタビュー、スタート。



 1999年におこなわれた舞台『寺内貫太郎一家』のもようが流される。ドラマ版で有名だった、机をひっくり返し息子役の西城秀樹と乱闘をおっぱじめるシーンだ。俳優として顔が売れてしまった作曲家――という過去も小林さんを語るには外せないパートであるのだから、この場面を挿入してきたのだろう。
 こんどは『積水ハウスの唄』が流され、画面の端に「CMソング6000曲以上」との文言が表示。そのあとも『どこまでも行こう』『チェルシーの唄』が流される。さらにテレビ番組の楽曲として200万枚の大ヒットとなった『ピンポンパン体操』は歌詞つきで紹介され、これに『ひみつのアッコちゃん』『にんげんっていいな』が続く。
 大学生時代の痩せ体系だったころの写真が映され、少々変わった経歴が紹介される。なんと通っていたのは音楽とは関係のない慶応大学医学部。



 1932年8月11日、東京都渋谷区生まれ。父は役人、母は劇団員。両親は医者にしたいと願っていた。だが、親が思うようには子は育たない。5歳にして亜星少年が心惹かれたのは音楽だった。それも、当時流行っていた和製ジャズ。
 ここで1928年の流行歌『アラビアの唄』が流される。亜星少年は、こういう曲を聴いて少年時代を過ごしたのであろう。太平洋戦争が勃発しジャズは敵性音楽として封印されるが、その後、敗戦とともに禁じられていた外国の音楽が一気に日本へ入ってきた。疎開先の長野から東京へ戻ってきた亜星少年は慶應義塾中等部へ編入すると、すぐさまジャズバンドを結成した。

「それまでは楽器の習い事はしていらっしゃらなかった?」
「ぜんぜん。譜面も読めなかった。そのころは、耳で聴いて、コードネームを覚えて、やっていました。上手かったんですよ。進駐軍のクラブがあって、そこで『子どものバンドで面白い』ってんで。新橋のガード下に進駐軍のクラブがあって、そこに出ろって言われてやってたら、ボクらの写真がガード下のあそこに写真が出ちゃって。先生が通りかかって『なんだコイツら』ってなって。親父に『そんなことばかりして勉強にならない』と、ギターを取り上げて風呂の焚きつけにされちゃった」
「お父さん・・・(笑)」
「(バンドを)できなくなったんでね。高校1年のときに音楽の先生が『おまえはコーラスをやれ』って言う。みんな声変わりのころで。高校1年ていうと、声変わりしてないやつが多くて。バスでウーウーウ~(と低い声を出す)って声が出るのボクだけなの。『おまえはコーラス部に入んなきゃダメだ』って言うから。強引に入れられちゃった。それから譜面が読めるようになった」
「そうでしたか」
「それで3年のときに『曲でも作ってこい』って言われた。同級生が詞を作って、女子校と一緒に混声合唱でやったら、やけに評判よくてね。こりゃイケるなーと。気持ちがいいもんだなと思って。自分の作った歌をみんなが歌うのが。それから(曲作りに)興味を持つようになって」

 とはいえ両親の願いを無下にもできず、医師への道を歩むべく慶応義塾大学医学部へ進学した。1951年のことだった。
 その前年に始まった朝鮮戦争は、日本を米軍の出撃基地へと変貌させる。街にはアメリカ兵があふれた。大学生となった小林さんは米兵が出入りするクラブなどで、ふたたびバンド活動に熱を上げ始める。

「ご両親はお医者さんになってほしかったんだそうですね、亜星さんに」
「自分がなれもしないでね」
「でも医学部に入られたんですよね」
「行かなきゃいけないって、うるさく言われて。嫌でしょうがないんだけど。高校の3年生のときの成績で医学部入れるんですけど、3年生のときだけ勉強したの。いつも落第点なのにね」
「3年生だけで医学部入れたんですか。すごいですね、亜星さん」
「そこがボクのインチキなところで(笑)。そいで医学部行ってガマガエルの解剖してるとき、ライターで焼いて食っちゃった」カエル
「なんで(笑)」
「そんなくだらないことしてるときに朝鮮戦争が起きて、進駐軍がやってきて、たくさんクラブができたんで日本人のバンドも不足して。医学部入ったばかりなんだけど進駐軍にバンド(の仕事へ)行くようになっちゃって。するとふつうの人の初任給が8500円のときに3000円くれる」
「1回(のステージ)でですか?」
「だから、それに釣られて。落ちぶれて。医学部がムリだってんで、3年から4年へ行くときに経済学部へ変わって、親父に黙ってたの。親父が白衣買ってきたんで『変わった』って言ったらガッカリしてね。ちょっと気の毒だった(笑)」

 大学卒業後は製紙会社に就職。営業を任されたが長続きはしなかった。

「製紙会社は給料が8500円しか入んなくてね。1日で飲んじゃう。金遣いが荒くなっちゃった」
「そりゃそうですよ、その若さでね。(進駐軍で)1回3000円とかね・・・何に使ってたんですか?」
「それは言えない」
「・・・・・・」
「一応、不良的な・・・まぁ、不良です」
「営業のお仕事はお得意だった?」
「得意じゃないんだけど・・・こういうことしてても、ちっとも面白くないってんでね。『こんなことしてても、どうしようもないな』と思って。『人間は好きなことをするに限るな』ってことに思い至ったんですね、ある日。それで、好きなことといったら音楽だなと。音楽を習いに行ったらいいと思って。どういう方におしえていただいたらいいかとしたら、やっぱり・・・テレビはないから、当時はラジオでね。『ヤン坊、ニン坊、トン坊』とか『向う三軒両隣り』とか、連続(ラジオ)ドラマの音楽のテーマがものすごくボクが好きでね。おんなじ作曲家=服部正っていう人。この人にって思ってね。先生のお宅へお訪ねしたら奥さまが出てこられて『うちは国立音大の学生さんとかしかおしえてないんで」って言われてガッカリして。でも当時、録音(機)があったんですよ。白い紙テープで(出来たものが)。それで(いままで作曲したものを)持って行って『聴いていただけたら』と置いてきたら、先生からお手紙いただいて。『ぜひ、いらっしゃい』って。それは嬉しかったですね」

『ラジオ体操第一』の作曲者としても知られる服部正。レッスン生となった小林さんは、ここで作曲の基礎を学んだ。

「1回に3000円のレッスン料で、高いなーと思ったけどね。なんとかしようと思ったけど。で、払ったの最初の3回だけ。あとぜんぜん」
「タダでおしえてくれたんですか?」
「先生なんにも言わなかった(笑)」
「アラそうですか」
「そのうちね、先生の手伝いさせてもらったりして、お金もらった」
「アハハハハハ! ・・・どんなことをおしえてくださったんですか、先生は?」
「作曲家になるにはね、対位法というのがあるんですね。ふたつ以上のメロディを絡めていく方法ですね。その技術。それと、管弦楽法。管弦楽の楽器の使い方ですね。これをマスターしなきゃ作曲家といえないんですよ。でもいまは、ぜんぜんやってる人いないから、べつにやらなきゃできないものでもなかったんだなーって思ってね」
「すごい結論ですね(笑)」
「損したような気がして」
「損はしてないと思います(笑)」
「ボクらは一応そういうのは、みんなかならずやったですね」
「先生は亜星さんに対してどういう評価だったですか?」
「一応、先生は目をつけてくれてね。まもなく先生の曲でアレンジをよく代理でやらされた」
「そのアレンジのお仕事をなさりながら、ご自身で書いた曲を世に出していくっていうことについては・・・」
「それはね、アレンジの仕事をしてると、自分で書いた曲を世に出していくっていう地盤がなくなっちゃう」
「そうですよね」
「だからボクもね・・・音楽番組を持ってたんですよ、NHKで。『夜の調べ』ってね、30分(枠)ですけどね。踊りが入って、フルオーケストラが入って。それをボクが毎週アレンジして、(指揮)棒を振ってたんですけどね。だけどそれやってると、一生、アレンジャーになっちゃうなと思って。オレはアレンジャーになりたくて作曲やったんじゃないなーと思って。それで申しわけないけど、いっさいアレンジやめちゃったんですよ」

 5年ほど続けたアレンジの仕事にみずから終止符を打った小林さんは、作曲家を目指す。
 思わぬチャンスを用意してくれたのは、妹=みづえさんだった。

「私の妹がレナウンって会社に勤めてたんですよ。宣伝部に。それで『こんど、うちの会社でコマーシャルソングを作る』と。まだコマーシャルソングって珍しいころですよね、テレビ放送が始まったばっかりで。それで『うちの兄貴がそういうのやってるみたいよ』ってデタラメを言ってくれて。『じゃあ兄貴に作ってみてもらおうよ』と。そいで私が頼まれて。妹のおかげで。だから妹には頭が上がんないんですよ」


 1961年に一世を風靡した『ワンサカ娘』のCM映像を見る二人。

 


「知ってますか?」
「モチロンですよ! 歌えますよ、私! レーナウーン、レナウンレナウン・・・ワンサカワンサカ・・・♪」


 映像終了。


「これを・・・第1号で? いきなり大ヒットじゃないですか」
「まぁ・・・けっこう、いきなり・・・なんか流行っちゃって」
「なんでこんな面白い曲をすぐに作れたんですか?」
「これね、NHKのアレンジの仕事したあと、新宿からバスに乗って帰ろうと思ってバス停まで歩いてるあいだに『どんな曲にしてやろうかな』と思って。そいでワンサカワンサカ人が歩いているから、そこで考えついたんですよ」
「新宿西口の、ワンサカ人が歩いていたからですか」
「そう、くだらないでしょ(笑)」
「“イエーイ、イエーイ”はどっから出てきたんですか?」
「それ、わかんない・・・」
「わかr・・・?」
「そういう変なの(詞)はね、よく出てくるんですよ。だからそういうのが入ってるの多いですよ、ボクの曲には」

『魔法使いサリー』と『狼少年ケン』の主題歌が流される。歌詞も表示され、“変なの”のひとつと思われる「マハリク マハリタ ヤンバラヤンヤンヤン♪」や『ボバンババンボン ブンボバンバババ♪」などのスキャットが効果的であったと強調される。
 そしてサントリーオールドCMソング『人類みな兄弟』が。これも“変なの”に入るのだろう。

「ふだんからそういう面白い不思議なフレーズがないかなって考えてるわけではなくて、人ごみを歩いてるときとか何かしてるときにポロって湧いてくるかんじですか?」
「考えて作ったものはぜんぶダメ」
「そういうものですか」
「自然と全体像が浮かばなきゃダメなんですね。ここまで作って次をどうしようかなってやってたら、こんなものはぜんぜん・・・ボクに言わせると、ぜったいヒットしない」
「そうなんですね」
「全体像をつかんで、ぜんぶがいっぺんに湧いてこないとダメなんですよ。そこがちょっと難しいところですね」
「例えば私、『花の子ルンルン』の歌とか大好きなんですね」
「ああ、ありがとうございます」
「ルルルンルンルン ルルルンルンルン ルルルンルンルンルンルン♪」
「あの歌、難しいんですよ。変調するから」
「そうなんですよ! 途中で2回くらい変調するから。でもあらためて聴いて、亜星さんのお歌のなかで1、2を争うキレイな旋律だなと思って、大好きなんですけれども」



『花の子ルンルン』主題歌の音源が1コーラス流され、同時に譜面が映し出される。
 そのまま2番以降に突入し、インタビューも再開。

「あんなのはいつ全体像が浮かぶんですか?」
「(笑)いつって・・・。詞をね、いただいて、詞を見てね、頭へ入れちゃうんですよ、まず。それで、放っとくんです。放っとくと、『いま作るといいぞ』ってときがくるんですね。作るときは20分か30分でできちゃうんだけど、『いま作るといいぞ』ってときになるのが時間かかっちゃって、なかなか・・・」
「あれは私も大好きなアニメでしたけど・・・女の子がよく見るアニメだったじゃないですか。それって、亜星さんは少女ではないので、歌詞を見ても、ふつうイメージするのが難しいんじゃないかなって思うんですが」
「そのときは少女になったつもり」
「“少女・亜星”なんですね、そのときは」
「気持ち悪いけどね(笑)」
「べつに少女漫画を読み込む準備をするわけでもなく、歌詞を頭に入れて、ルンルンになったつもりで過ごしているうちに『あっ、いまだ』っていう・・・」
「そうなんです、それが不思議なんですよね。だから一生懸命『今日、作るぞ』って思ってやろうとしたって、いいのが生まれるとは限らないから」

 番組では触れられなかったが、この『花の子ルンルン』には『女の子って』というED曲がある。

 これに少女になったつもり(?)の小林さんが歌い手として参加しているのである。アニソンを歌ったのはこれが初めてらしい。



 ふたたび『日立の樹』が流される。
 CMソングの依頼を受けると小林さんは、いつも企業側に、ある要望を出してきたそうだ。

「企業のCMとかをお引き受けになるときに『社長さんに会う』っていうのを(資料で?)読んで、なんでだろうって・・・」
「会社のコマーシャルソングを作るには、その会社の宣伝ですから。その会社のことでいちばん何が重要で、いちばんどういうことが言いたいのか、わかってるのは結局、社長ですよ」
「そんな大きい会社でも、社長さんにお会いになって」
「どんなにみんなが『亜星さん、いいのができたね』って言っても、社長に聴かせて『ダメだ、こんなの』って言われたら終わりですもん」
「じゃあ、会って『この社長さんは、こういう曲、好きそうだな』っていうのも、なんとなくアタリをつけてるというか、そういうところも見てらっしゃる?」
「そういうズル賢いようなことをやってると言うと、社長がつき合ってくれなくなるから言いたくないけど・・・」

 1993年、パン・スクール・オブ・ミュージックの学長に就任。売れる音楽の作り方を伝授してきたらしい。

「流行る曲を作る方法ってのがあるんですよ」
「アラまぁ大変。音楽関係の方、メモです」メモ
「でもね、みんなウソだと思って、まともに聞くやつはいない」
「じゃあ、いまんとこ誰も身につけてないからチャンスです」
「まずね、頭・・・出るときね、みんなで歌う歌は『せーの、パン』と始まるほうがいいです。ひとりで歌う歌は、それじゃ面白くないからアウフタクトで出る」
「ウンって、いっこ拍子を置いて、裏から入るっていうのと・・・」
「それから、いちばんその曲の高いところ1ヵ所(極端に高い音程を1ヵ所入れる)とか」
「いちばん高いところ・・・『北の宿から』とかだと? あなたー恋しいー♪」
「そこがいちばん高いとこ」
「なるほど」
「アレもだから、いちばん高い音が・・・下にバーンといくから」
「あなたー恋しいー♪」
「き・・・! いちばん低いとこまでいける。そういうことを知らないで作ってる人がいる。ほとんど知らない。ところがね、おしえてもみんな本気にしない。『つまんないこと言ってる』と思ってる。いちばん大事なことなのに」
「そうですか」
「3つ目はね、曲の終わりの音をレとかソにいかない。というのはね、レとかソにいきやすいんですよ。誰でもね、素人が作っても・・・フレーズの終わりね、息をつくところ。そこがレとかソになっちゃうの」
「例えば亜星さんの歌だと、いまのレナウンの歌も・・・。プールサイドに夏が来りゃ♪ “りゃ”は何の音ですか?」
「ド。ララソミド、ド」
「イェイ イェイ イェイ イェイ イェイイェイ イェイ イェイ イェイ♪ 最後の“イェイ”は?」
「ミですね」
「マハリクマハリタ ヤンバラヤンヤン・・・ヤン! これは何の音ですか?」
「ラ。レとかソへいくのが平凡なんです。それ順位があるんですよ」
「そうなんですか!」
「シにいったり、♭か#のついてるところへいくとか。息をつく前が。そういうのが高度なの。面白いの」
「亜星さんは、それは経験のなかで発見していったわけですか?」
「そうですね、一応。なんか、偉そうに(笑)」

 ここでふたたび舞台『寺内貫太郎一家』のもようが流される。

「亜星さんが『寺内貫太郎一家』の主人公・お父さん役っていうのは、テレビでのお芝居で初めて?」
「そりゃ初めてですよ」
「べつに目指していたわけではないですよね、役者さんを。目指してないのに、なんでいきなり主役に?」
「それはね、向田(邦子)先生が向田先生のお父さんをモデルにして書くからってんで。『太った人じゃないと困るからね、主人公は』って言うんで、じゃあ太ったやつ誰がいいんだってなって。そしたら誰か乱暴なやつが・・・そのころボクはTBSでドラマ番組の音楽を3つも一緒にやってるようなことやってたんで・・・」
「大変でしたね、お忙しくて」
「それも大変だったんですけど・・・『そうだ、あいつはたしかデブだ。あいつ出しちまえ』って。デタラメなやつが揃ってて、そいで久世に呼ばれて」
久世光彦さん」
「ええ。久世光彦さんが『こういう役やってみないか』って言うんで『冗談じゃないです、私は役者のヤの字もやったことないんですけど』って。向田先生が『あのスケベそうな人? やーだわー』って仰ってたんですけど」
「そのときはどういうヘアスタイルだったんですか?」
「言うんも恥ずかしいけど、変な、伸ばして・・・」
「長髪だったんですか」
「そうです。言わないでください(笑)」
「(放送に)流れちゃいました」
「それをね、久世が・・・地下にね、床屋があったんですよ。『そこへ行って頭、刈ってこい』って。刈って出てきたんですよ。向田さんに見せてね、ボクの顔を見たら『ああ、これが貫太郎よね!』って言っちゃったんですよ。それでこっちは逃げられなくなって。冗談じゃなかった(笑)」



 昨今では太ったタレントがデブを売りにしただけで問題視されたり、太った子どものテレビ出演がNGにされたりする流れがあると聞く。
 べつに太り体型そのものは悪というわけではないのだし、太ってることに必然性があるのにこれをタブーにしようとする動きは、はたして正当性があるといえるのだろうか?
 なお寺内貫太郎役の候補としては、この当時、太っている俳優が少ないなか、高木ブーやフランキー堺らの名も挙がっていたという。彼らは多忙で断られたので小林さんに白羽の矢が立ったのだそうだが、もし本当に高木ブーが主役になっていたらどうなってたのだろう?
 


「(西城)秀樹さんは、当時はトップアイドルというか大人気・・・」
「ボクが庭に投げ飛ばすシーンがあってね。そしたら庭に、これまた誰かが釘の刺さった板を落っことしていたの。わざとじゃないけど。そこへ手をついちゃったのよ。それで大変なケガになって。すぐ救急車。それが知れちゃったら、もうヒデキのファンはすごいですから」
「ファンが怒って・・・」
「女の子がね、私んところへ『おまえの大事なところ引っこ抜くぞ』とかね、ヒドいコワい手紙がね」
「その後はご無事でしたか?」
「ご無事でした」
「よかったですね」

 この件について、おそらくヒデキは言及はしなかっただろうが、本音としては「そんなファン、いらね」って思っただろうね(苦笑)。




 1970年代から1980年代にかけ、小林さんがたびたびタッグを組んだ作詞家が、阿久悠だ。
 なかでも『北の宿から』は『紅白』で2年連続歌われるほどの爆発的な大ヒットとなった。

「演歌とか作ったことなかったから。まぁ、1回はやってみたいなーと思ってね」
「『北の宿から』の歌詞を最初にご覧になったときに、“女心の未練でしょうか”じゃなくて“未練でしょう”になっているところをご覧になって『あ、これはいいんじゃないか』と?」
「いや、あれは阿久さんがそう仰ってたときがある。自分でね。ボクに渡したときね。“未練でしょうか”という女じゃなくて“未練でしょう”と、自分を客観視して見てる。『私ってこんな女だ。まぁ、そんなもんでしょう』と。そういう新しい時代の女性像なんだってことを、ボクには言ってくれたような気がする」
「最初に阿久さんから来たのは何の詞だったんですか?」
「カップラーメンが初めてできて・・・」
「日清のカップヌードルのCM?」


「『ハッピーじゃないか』ってコレ、阿久悠さんと亜星さんでお作りになったCMソングなんですかぁ」
「初めて一緒に作ったのはコレだったと思います。このとき初めてカップラーメンてものが生まれたんです」
「そうなんですね! いま世界じゅうに当たり前のようにありますけど。そうでしたか」
「阿久さんとはよく・・・お酒が二人とも好きなもんで、飲み屋で毎晩のように飲んでたですね」
「何の話をされるんですか?」
「まぁ、くだらない話。あんまり世の中のためになるような話じゃなかったけど(笑)、阿久さんは真面目な人だから、変な猥談をしたりはないです」
「それ、いいお酒ですね。じゃあ、お仕事の話を飲みながらして、今度こんなことを、こんな曲を・・・とかいうのは、あんまりなかった?」
「いまの世相を・・・どう思うかって話だと思うけどなぁ」

 再度『ピンポンパン体操』が流れる。

「あれは阿久さんが歌詞を書かれて・・・?」
「詞を渡されてね。『こんなの、どうしろっていうんだ?』って思ってねぇ。弱っちゃったなぁと」
「『ピンポンパン体操』は、たしか3つぐらいですか? もっとかな?」
「4つあるんですね。1回うまくいくと、局の人がもっともっとやろうとするんですね。ボクだけ1回うまくいったら、もう2度目はやらないで『あのときはうまくいった』でいいと思うんだけどね。さすがに4つやったら、こりゃダメだと思った(笑)」

野に咲く花のように』が流される。

「私ね、今回、亜星さんにお目にかかることになって、ずっと伺いたかったんですけど。こんなにヒットを飛ばしている亜星さんが携わったものであるにもかかわらず、ほとんど根づかなかったものをひとつ記憶してるんです」
「なんでしょうか?」
「国鉄が民営化したときにですね、電車の愛称を作ろうってことになって。公募したんですよ。で、亜星さん審査員で選んでましたよ」
「ああ、ホント?」
「それ発表してましたよ。亜星さんが発表したの、私、見たんですから、テレビで。え、亜星さん憶えてないんですか?」
「・・・・・・」

 1987年。国鉄の民営化にともない、JR東日本がそれまでの“国電”という呼称に代わる愛称を一般公募。小林さんは選考委員のひとりだった。
 このときの映像が流される。“E電”と書かれたボードを笑顔で掲げる小林さんは54歳(当時)。

 



「E電!」
「初めて聞いたみたいなお顔されてましたけど。『East、Enjoy、EverydayでE電です』っていうの、亜星さん仰ってましたよ」
「へえー!」
「(笑)これがですね亜星さん、まー見事に誰も使わないままいつのまにか消えてたんですよ」
「よかった」
「ハハハハハ・・・。ダメですか、いま聞いても」
「まぁイーデン」
「ハハハハハ! ・・・アレは根づきませんでしたね、亜星さん」
「あー、でもそれも仕事だったのかしら(笑)?」
「いまね、ご覧になってる方はつい忘れがちになると思うんですが、なんと亜星さんは米寿を迎えられたという・・・88(歳)ですよね?」
「これでどのくらい、あと生きられるのかなと、ちょっと自信がないですけどね。今日なんて久しぶりにこうやってテレビに出させてもらって、こういうところへ来ると、こういうことも楽しいなぁと思っちゃって」
「あら」
「またテレビにも、ときどき出させてもらおうか」
「ぜひ! ぜひ!」
「つい、そういう気になっちゃう」
「またこういう機会があったら、お話を、あらためてまた伺えればと思いま・・・」
「アレ、もう終わりですか」
「もう、だいぶお話になりましたよ(笑)」
「なんか、あっというまに。楽しかったです。ホントにありがとうございます」

 

ホテル


 終了。
 今回こうして番組を咀嚼するように見返したわけですが、面白語録がいっぱいありました。
 売れる曲作りのくだりは、とくに興味深かった。あんなの秘伝みたいなものじゃないですか。それをテレビで大々的に公開するなんて、太っ腹だなぁと思います。
 いやぁ、記事にしといてよかったです。たま~に見る程度ではありましたが、いい番組ですね。でも、この3月27日をもって放送終了だったらしいです。残念。



 あとですね。番組で紹介された曲は有名どころばかりだったのですが、個人的にもっとも好きな小林亜星作品は『宇宙の騎士テッカマン』のOP曲とED曲なんですよね。
 これについてはいつかまた扱うことがあるかもしれないですが、日本ではややマニアックな曲どまりな印象があり非常にもったいなく思っておりました。アニメのテーマソング、という付加価値を抜きにしても大傑作だと私は見ていたんですよ。
 でも海外ではちゃんと高評価されてる国もあるようです。

 


 で。インタビュー中にもありましたように、ドラマ出演をきっかけにオニギリみたいなヘアスタイルが定着しちゃった小林さんですけど。
 もういっぺん長髪にしてみてくれないかなぁ?