アメブロ各所を徘徊中・・・いや巡回中、また面白い記事に遭遇しました。いつものようにコメントを書いてたら長くなってしまったので「これは肉づけして記事を一本書いたほうがいい」と思い直しまして、リブログ扱いとさせていただきます。

  本日の題材となったのは神奈戸零サンのブログ。神奈戸サンの記事がこのパターンでリブログになるのは2回目です。この方のブログは読み進めてるうちに扱ってるものへの興味が高まっていくことが多く、いつも楽しみにさせてもらっています。

 

  ではまず、今回のモトになります記事をご覧ください。

 

 
 ご存知、さくらと一郎の『昭和枯れすゝき』をベースに、昭和という時代の、とくに「負」の側面を考察する展開で書いておられます。
 曲そのものはメジャーですから、最初は「ああ、あの歌か」程度のテンションだったのです。それが、読んでるうちに「おやっ、そういえば自分はこの歌をそんなに掘り下げたことがないぞ」という点に気づきました。そしてそこから私の琴線にも触れるような切り口で綴られてまして、こちらとしても言いたいことがどんどん膨らんでいった次第なんでありますよ。
 
🎥この歌をモチーフとする歌謡映画『昭和枯れすすき』

 近年でこの歌が話題になるときは、いつも決まってギャグのネタにされるような扱いで。ところが大して面白くなったためしがない残念なポジション止まり。例えば『クレヨンしんちゃん』で使用される際などは「さぁ、笑ってくれ」といわんばかりの空気が強すぎ、全体のクオリティが下がってしまうような演出・・・ハッキリ言ってあまりセンスのいいものではなく、この曲が邪魔になっちゃってることすらありました。
 まぁギャグで使うこと自体が悪いわけではないですし、そういう使い方があってもいいんだけど(いまのところ「やめといたほうがよかった」と感じる結果ばかりになっているが)、あらためて咀嚼してみるとこの歌は本当に悲惨な世界観であることに気づきます。
 とくに「世間に負けた」の箇所。弱者や少数派は排除される現実は平成末期になっても終わりは見えません。
 
 いっぽう近年では昭和に憧れを抱く平成世代も増えてきました。当初は面白い現象だと思ってはいましたが、彼らの興味の対象をよく見てみれば、その多くが昭和後期のアイドルをはじめ華やかで楽しいものばかりを追っかけてるだけだったりしてる。なかには「また昭和になってほしい」と言う人までいる。
 単に本人が多感に過ごしていた時代(とくに昭和後期)を未だに追っかけてるだけな昭和世代は論外です。若いときに好きだったものを未だ一途に追いかけてるだけなパターン。べつに「いけない」とは言いませんし、もちろん本人の勝手なんですが、そんな人ならフツーにいるので面白くない。でもそんな彼ら・彼女らにしろ、大雑把に「昭和好き」を公言しちゃう人は多いですね。
 
 だけど昭和を語るとき、ぜったいに欠かせないのは戦争なんです。昭和後期にみられたテレビドラマやアニメ、アイドルの楽しい歌などにしても、その裏側には戦争の闇があり、そこを通過したうえで成り立っている世界観であることも嗅ぎとらなければ本質は見えてこないのではないかと思います。
 
 神奈戸サンも指摘されてるように、前半と後半でこれほど大きく空気の変わった時代はかつてありませんでした。それゆえ、一括りに「昭和」という表現だけで片づけてしまうのは軽々しいにも程があると私なんかは感じてしまう。
 
 
 希望に満ちた歌もいいでしょう。楽しい娯楽番組もいいと思います。でも、それらの「希望」や「楽しい」部分しか見えてないのだとしたら「昭和が好き」ということばは浅いものになってしまう。もっと言えば「看板に偽りあり」と指摘したくもなる。
 昭和は長い。みずからを「昭和好き」と言って憚らないのであれば、昭和初期のものから守備範囲に入れなければおかしいのです。とくに先ほどの「昭和後期に多感な時期を過ごした」層が、そこだけでとどまってるのは「昭和好き」として堕落しているのではないかと。もっと攻めの姿勢でいないといけません。
 その意味では、おなじ昭和後期で止まってる者のなかでも、自分が生まれる前のことに興味を示した平成世代に大きく後れをとっているといえます。単に育った時代に流されてきただけの者と行動を起こした者とでは、興味の対象がおなじだったとしても同列ではないと思うからです。
 いまは簡単に前の時代を知るツールがたくさんあります。平成世代もそうして知識を得ているのです。昭和世代も自分が昭和を過ごしたというアドバンテージに胡坐をかいている場合ではありません。いよいよ平成世代が守備範囲を広げていけば、知識面ではあっというまに先を越されてしまうでしょう。
 
リサイクルこちらもオススメの記事です。懐メロとは?

 神奈戸サンのブログでは、ご本人が少年時代を過ごした昭和後期には「『乞食』と言われる人を見るのも珍しくありませんでした」と書かれているくだりがあります。ところがいまや各メディアでは乞食は禁句扱い。まるで「なかったこと」にでもしてるかのよう。このまま葬り去るつもりなのでしょうか?
 また、当時の人は「人生は頑張れば夢は叶うものであり、希望と栄光に満ちているものである」といった無責任な論調にダマされてきました。というか、そうじゃない思想を持ってはいけないような風潮も在ったと思います。いまだにこの洗脳が解けない人は大勢います。もちろん昨今でもおなじような系統の教育や応援歌などは存在しますが、現代ではこれをまともに受け容れなくても文句を言う人はあまりいなくなりました。
 
 昭和を過ごしてきた人の強みは、そういった(よくも悪くも)現代ではすっかり薄まってしまった空気を自分の目で見て肌で感じてきた経験者であること。ニオイもおぼえていること。例えば、いま、おなじように昭和の音楽を聴き、おなじように昭和の映画を観るにしても、その当時のシチュエーションのなかで観たり聴いたりした経験のある者とない者とでは違う色として感じ取ってしまうことでしょう。平成世代にどうしても超えられない部分があるとしたら、そこではないかと思います。
 昭和に興味のある平成世代の人は、そのあたりを想像しながら観たり聴いたりしてみると、ちょっと違った味わいを感じることができるかもね。訊きたいことはオッチャンやオバハンに早めに訊いておきましょう。闇に葬られる前に。
 
 
 そんなわけで。
『昭和枯れすゝき』がリリースされたのは昭和後期ではありますが、このたび初めて「腰を据えて聴いてみよう」と思うきっかけになりました。あれは昭和前期の重たさを伝える役割をも担った歌だったのだと、いまさらながら実感した次第です。
 もともと私は戦前のものを漁ることも好きはでありましたが、これでもっと興味を持ちつつ“闇”を発掘する旅を楽しみたいと思います。
 
 ああ、さっき「堕落」って指摘した人ですけどね。
 よく考えたら「昭和の末期だけが好き」って言い換えられたらオシマイでしたわ。
ショック!