みことば -26ページ目

「良心」 みことば081223

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ6:37)
自分がさばかれたくないからという理由だけで神に従うのではありません。そもそも人はさばく立場にはないのです。人にはもともと神に通ずる良心(霊)がありますから、良心を活用しながら物事を判断するとよいでしょう。

「語りかけ」 みことば081222

木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。(ルカ21:29-31)
自然界は私たちの目を喜ばせるだけでなく、神の思いを伝える忠実なメッセンジャーでもあるのです。たとえば地球温暖化現象に対し、それ自体の策を講じるのも大事なことですが、その現象が私たちに何を語りかけているのかを悟ることはもっと大事なことなのです。

「愛」 みことば081221

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。(ロマ12:20)
赦しがたい相手がいた場合、あなたならどんな仕返しを考えますか。意外にも聖書は相手によくするよう命じています。つまりあなたはすべてを神にゆだね、罪を犯してはならないのです。神は私たちを救い、さらに相手を戒めた上で相手をも救うのです。人は感情で行動しますが、神は愛によって行動されるのです。

「人イエス」 みことば081220

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)
イエスがマリヤから誕生したという事実は、イエスが人であることを証明しています。イエスが一度も人間を経験をしたことがなければ、私たちはイエスに親しみをもてないでしょうし、聖書を理解できなかったでしょう。イエスが地上にいたからこそ今こうして希望があるのです。

「いやし」 みことば081219

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。(マタイ9:2)
イエスは、病気をなおすために罪を赦されたのではなく、純粋に人々の罪を赦してあげたかったのです。病気というのは人々が神に気づくためのきっかけであり、いつも病気ばかり見つめていた目を神に移すためにあるのです。

「救い」 みことば081218

ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19:8)
救われたよろこびはこのようなものです。全部捨ててもいいと思えるほどなのです。なぜなら比較にならないくらいすごいものに出会ったからです。お金では変えない、そして二つとないものだからです。それが救いであり、その実体はイエスです。

「霊の目」 みことば081217

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:39)
神が見えるようになることが人生最大の課題です。それは、イエスを通して神が見えていなかった者の目が見えるようになり、神が見えていると思っていたが実はちがうものをそうだと信じていた者の目が一旦見えなくなり、そして見えるようになることです。

「時間」 みことば081215

それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。(マルコ14:37)
お金よりも使い方がむずかしいのが時間です。時間は一時保管ができませんし、かんたんにうばわれてしまいます。時間を支配するのは神ですが、じゃまをする霊がうじゃうじゃいます。時間をじゃまする霊はイエスをじゃまする霊です。

「良いお方」 みことば081214

してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)
一瞬、え?と思ってしまうかもしれません。神が私たちのことを悪い者であると前置きして語られているからです。しかし私たちはまちがいなく悪い者です。良いお方は神だけなのです。

「罪人」 みことば081202

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
注目すべきは後半です。この地上には正しい人は一人としていないのです。正しいのは主お一人です。ですからすべての人がイエスを必要としているわけで、すべての人が罪を処理する必要があるのです。たとえるならば、私たちはイエスという医者を必要とする病人なのです。