みことば -25ページ目

「従う」 みことば090102

主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。(創世記7:1)
ノアにはどのような正しさがあったので、神に認められたのでしょうか。熱心に祈ったからなのか、行いがまじめだったからなのか。いえ、ノアは神に従ったのです。大事なのは、惑わされずに神のことばに従うという意外と単純なことなのです。

「心の渇き」 みことば090101

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
生ける水の川が流れ出るようになるただひとつの条件は、イエスを信じることです。渇きとは満たされない気持ちであり、人生における迷い、苦しみ、悩みなどのことです。この水はうわべだけでなく奥底から解放を与えます。

「寿命」 みことば081231

そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。(創世記6:3)

アダムの時代、人は千年近く生きていましたが、ノアを最後に徐々に寿命は短くなりました。現代の最高長寿が120歳前後であることからも、この記述が正しいことがわかります。人が肉のまま長生きすることを神は望んでいないのです。

「神に期待」 みことば081230

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。(マルコ5:30)
12年間病気で悩んでいた女性がイエスの着物にふれたときのことです。自分をいやすことができるのはイエスだけであるという強い確信がイエスを振り向かせたのです。イエスにのみ期待するという思いは、神が最もよろこばれる心のありかたなのです。

「ささげる」 みことば081229

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)
「愛する」ということばをあえて定義すると、それは「ささげる」ことだと思います。自分を否むという真理が愛の奥底には存在するからです。イエスは仕えるという行為によってそれを現し、ご自身をささげることで完結されました。

「ヒストリー」 みことば081228

それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。(創世記2:2)
歴史のことを英語でヒストリーといいます。語源はヒズ(神の)ストーリーであり、その中身はすべて過去の出来事です。なぜ過去の出来事が神のストーリーなのか。それは創造の7日目にすべてのストーリーは完結しているからです。私たちはすでに完成されている道のりを歩んでいるのです。来たるべき7日目に向かって進んでいるのです。

「永遠」 みことば081227

神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記3:22)
人は神とともに永遠に生きることを前提に造られたのですが、罪をもったままでは永遠に生きることはゆるされません。神はエデンから人を追い出し、罪を認めさせた上で、もう一度エデンに迎えいれる計画を立てられたのです。

「心の解放」 みことば081226

私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。(ロマ7:19)
私たちは経験上、やろうやろうと思いながら先延ばしになっている事柄をかかえることがあります。強い意志で乗り越えることもできますが、意志を働かせすぎると慢性的なストレスになり、破綻を来たすこともあります。心はもっと解放されるべきです。いちばんかんたんな方法はイエスに祈ってみることです。

「養い」 みことば081225

それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。(マタイ15:36-37)

7つのパンと魚によって4千人が満たされました。私たちは働いて得た収入で生活していますが、それは自分の力だけで得たのではないのです。常にイエスが私たちのために父なる神に祈ってくださり、養ってくださっているのです。

「気づき」 みことば081224

『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』(ルカ7:47)
神はご自身のことを少ししか愛さない人のことを少ししか赦さないのではありません。途方もなく大きな自分の罪に気づいた人はたくさん赦しを求めるものですが、自分の罪の大きさに気づかない人は神の愛に少ししか気づかないのです。ゆえにその人は神を少ししか求めないのです。