LP「若き獅子たち」考 〜西城秀樹 が表現するやさしさに根ざした情熱と狂気/後編〜
2019年8月14日、Twitterに初回UP。
後に、余計なツッコミを取り除いた加筆修正版を再UPしました。(今回ここに転載したものは加筆修正版です)
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【渚から】
とうとう訪れてしまった、「別離その1」の章。
実は前曲「裸体」で「からだを重ねた」後、別離の理由に関しては明確な説明がなく、ここに至っている。聴き手の想像に任せる、ということか。
お互いが歳を重ね「好き」という感情だけでは立ち行かないこともあることをだんだん知っていったのだろう。
そしてこの「渚から」より、二人称が「君」→「あなた」に変わる。
「ぼく」が少年から青年に精神的変化した証でもあり、「君」=「青春の日に出会った美しい人」に別れを告げる覚悟にも取れる。
「君=あなた」が「青春そのもの」であったことには、なんとなく、まだここでは気付いていない気がする。
別離という悲しみの章にもかかわらず、秀樹さんの歌唱には微笑みすら読み取れる。
2番の出だし「さよなら」の言葉の部分では確実に微笑んでいると私は受け取った。
そのかすかに感じられるほどの微笑みが、阿久氏の言う「やさしさに根ざした情熱と狂気」、なのだろうか。
この様な曲を分析していくのは非常にナンセンスな気もするが…あえて少しだけ。
「渚から」に関しては、歌唱において心がボコッと浮き出たり引っ込んだりする部分(便宜上「粗」という表現を使わせていただく)が一切ない。
例えば、他の曲がブレス音を効果的に使用(むしろ多用)しているのに対し、
この「渚から」ではブレス音がほんの僅かしか認識出来ない。
また各フレーズ終わりの語尾も、非常に丁寧にまるで壊れやすいシャボン玉を置くように歌っている。
テヌートはテヌートであり、レガートはレガートであり、かなり几帳面に譜面通りに歌っていると思われる。
他の曲に関しては、「ぼく」の感情の波立ちによるこの「粗」が曲の魅力を作り出していると思うのだが、
この曲の魅力は悲しい別離とは矛盾するかのような、感情の波立ちを抑えた「粗」のなさという、
真逆からのアプローチにあるのではないかと私は考える(同じようなアプローチをかけているのが「青春のタイトロープ」)
悲しみの感情とは完全に裏腹な、細部までコントロールされた全く乱れのない歌声が語るその風景はどこか俯瞰的であり、
その声の届け主は「ぼく」であって「ぼく」でないような…
どこか「ぼく」が「ぼく」自身を突き放しているようにも見えるのだ。
そんな俯瞰的に語られる言葉たちが、聴き手の精神を翻弄するのである。
悲しんでいいの、どこに行ったらいいの、と。
その不安定さにいつも私は心が揺さぶられ、秀樹さんの歌声に連れられて「ぼく」と「あなた」のいた渚を彷徨っては、
2人の心情を察するあまり余計にどうにもならない悲しみが突き刺さり、やはり泣きながらしか聴けないのである。
さらにナンセンスな分析は続く。
歌唱的部分に関しては、歌い方が今(1976年=青年)の秀樹さんにようやく近づいてきた。
A面「デッドヒート」とは真逆の、口の中をあまり変えずに縦でまぁる目に母音を作る歌い方(特にア行に注目)。
喉より下に響きを作って、声の芯もA面よりはっきりさせている。
その声の遷移はまさしく、少年から青年への成長を見ているようだ。
何度も言うが、本当にA面とB面は同時期に録音されたのか?まるで信じられない。
それにしても…この歌い方、どこかで聴いたことがあるような…
そう、「わが青春の北壁」以降の歌い方なのだ。
「青春のタイトロープ」でも感じたが、「北壁」の前に、こんなに深い歌い方が出来てたのか…
私は倍音のことは詳しくないので見当違いであれば申し訳ないが、
「渚から」の歌唱はひときわ倍音ががんがんかかっている気がする。
とにかく共鳴がものすごい。秀樹さんの身体全体が共鳴腔になってるみたい。
録音でこんなに共鳴がわかるって、ライブで聴いたらたぶん失神する。
そう言えばこのLP、1本のミュージカルみたいに、ライブで通して演奏されたことはないのでしょうか。
あれば音源だけでも絶対聴きたいのだが…
ナンセンスな分析はこの程度にして。
そんな理屈を頭で考える間もなく、秀樹さんの歌声は容赦なく私に入り込んで私をかき乱していく。
その声のなんとやさしいことよ。
ひとたび耳を傾けると、狂気と情熱を孕んだやさしさが本当にじんじんと音を立てて胸に染みてくるのだ。
不思議なのだが、あ、染み込んだな、と心で認識すると同時に、もう無条件で涙腺が緩んでしまうのだ。
こんな現象は、今まで生きていても一度もなかった。
なぜだ。何故西城秀樹の声はこんなにもやさしいのだ。
何故この声は勝手に胸の底に入り込んで私を泣かせるのか。
何故、そんなにも愛してくれるのか。
本当に、科学では解析できないこともあるのだと思う。
【太陽の悲劇】
「別離-葛藤」の章。
この章では「ぼく」と「あなた」が、いったん精神的な死を迎える。
モノローグ「傷つくことが青春だと信じた日」「ぼくの心に爪を立て 息たえさせたあなた」とリンク、
そして「青春のタイトロープ」の「このぼくが生きた みじかいあのとき」とプチリンクしている。
まず歌い出しからもう、秀樹さんの甘く苦しい声使いが聴き手も共に息苦しくさせる。
この人の声は一体どこまで聴き手をあちこち連れて行けば、気が済むのか。
その甘く苦しい声を聴くだけで、ギューと縛られたようになって、なんだか涙が出て仕方ないのだ。
そこには、理屈なんてきっとない。
声が耳に届けば、涙が出るのだ。
理屈はないのだが…秀樹さんがどんな凄いことを具体的にやってるかは、やはり記録として残しておきたい。
ナンセンスではあると思うが、こちらも言葉に出来る限りで解析をしてみた。
しっかりすっかり、芯のある青年声に変化している。
Aメロではその芯を残しながら声を口腔内で遊ばせていて、
それ故の息を泳がせるようなビブラート(例:冒頭の「戦いすんだ」の箇所ほか)も哀しく美しい。
このビブラートのタイプもこのLPでは初登場。
普通ビブラートなんぞ1種類かけるだけでもひぃこらなのに、何というレパートリーの多さ。
身体の使い方、特に丹田あたりの筋肉および息のコントロールが抜群に上手いのだと思う。そして口腔内外は安定の脱力。それ故に声がよく伸びる。
徐々に感情が高ぶり、サビの山に向かっていくのだが、1番と2番でブレスもがっつり異なる。
1番はブレスほぼ無しでレガート気味にフレーズを繋いでいくのに対し、
2番はどんどんブレスが浅く苦しく息も絶え絶えになっていき、フレーズは細切れになり、
感情の波立ちが前述した「粗」として、聴き手にも波のようにザパザパ次から次へ襲ってくる。
息苦しいから、沢山息を吸おうとする。そして過呼吸のようにもっと苦しくなる。葛藤のあまり、窒息しそうな「ぼく」。
聴き手もつられてしまいがちだが、「ぼく」が苦しむ有り様を自分に投影し過ぎてしまうと、
この曲は本当に息が出来なくなるので気をつけてほしい←経験者は語る
「粗」の全く目立たなかった「渚から」とは裏腹に、この苦しい息遣いや苦悩の叫びによる「粗」が、
「ぼく」の生々しい人間としての息づきを強調しているように思う。
「あの時の 太陽が いつわりで あるのなら
あの時の 青春も まぼろしと 笑うのか」
1番と2番で正反対の、太陽の色と表情。
それに照らされる、世界の色の変化。
青春の色もそれと同じくして、変わってしまうのだろうか。
数々の疑問が、「ぼく」の中で葛藤に変わる。
青春=「あなた」はまぼろしだったのか。
青春のあの時は、あやまちと呼ばなくてはいけないのか。
そして「ぼく」は「あなた」を振り切り、旅立たなくてはならないのか…
次々飛んでくるナイフのような葛藤が「ぼく」の身体を切り裂いていく。
傷つきながら、血を流しながら、必死の形相でフレーズを繋いでいく。
最後は自らを自らが追い詰めて、地中深い穴の底から、遠い光に向かって残る力を振り絞り叫ぶ。
しかし穴はどんどん深くなり、光は遠くなる…
どうだ。
彼の歌声はそんな奥深い部分、いやもっともっと言葉に出来ない程の色や景色まで聴き手にイメージさせてしまうのだ。
物凄い、表現力と伝達力。
そこに歌唱力を持ち合わせた歌手は本当に一握り。
秀樹さんがその一握りの中にいる事がなかなか認識されない理由は、
ヒデ友さん達が今懸命に伝えようとしている。
その想いが、各方面に通じることを切に願う。
このLPのなかでは珍しく、ひとつの独立した曲としてまとまりを見せている。
個人的には、シングルカットしてもおかしくないくらいの大傑作だと思う。いやむしろ、
こ の 曲 、 西 城 秀 樹 の 代 表 曲 に 今 か ら し た い 。
私は本気だ。 それぐらい素晴らしい。
何が素晴らしいって、三木先生の曲と、アレンジと、阿久先生の透き通るような歌詞、そして秀樹さんの歌声の全てが、
本当に奇跡レベルでグワッと合体して一つのドデカい光の球になって聴き手の心に直球でズドーンと来る感じなのだ。
このように長嶋茂雄的な抽象的な表現でしか表せずに申し訳ない。
何よりその奇跡の光の球の中で彷徨う秀樹さんの歌声は、私が今まで出会った歌を歌う人の中で一番
「これだ…!この声なんだ…!」
と稲妻が走った声。
うまく言い表せないけど、そういうこと。
この青く蒼く輝く光とほんの少しの赤い炎が混じった歌声が、西城秀樹なんだと。
大事なことなんでもう一度言う。
「やさしさに根ざした情熱と狂気」by阿久悠
なおこの曲に関しては、まだ私はやさしさを享受するところまで辿り着けていない。
「渚から」のジンジン胸に染みる感覚とは全く別の、情熱と狂気の中で自分の首を絞められながら、
苦しくなりながら涙を絞り上げられる感覚。
もう100回以上聴いているのに、なんでこうなってしまうのだろう。
いつ、抜け出せるのだろうか。
【ギターの墓標】
「別離-青春との訣別」の章。
私個人の見解ではあるが、「渚から」で「青春の日に出会った美しい人」との別れ、
「太陽の悲劇」で疑問を抱き葛藤を続け、「勘違い」をしていたことに気付き、
この「ギターの墓標」で完全に「青春そのもの」との訣別を覚悟したのではないだろうか。
LPの中でも非常に役割の比重が大きく、
例えて言うなら重たいリュックサックの中を占める荷物の中でも一番重たいもの、例えば命をつなぐための水筒のような役割を担っていると思う。
そう考えると、序曲のなかで唯一独立して旋律が登場したことも頷ける。
時計の針が残酷に音を刻むなか、歌いはじめた「ぼく」の、重たい、重たい、嘆息。
一歩一歩、砂から足を引き抜きながら海辺の「墓標」に向かう「ぼく」。
ギターの墓標を立てた「男」の想い。
恐らく「ぼく」がまさしく今、そうしようとしているように、彼も葛藤を捨て、自分の心に決着をつけたのであろう。
「心に固い」鎧を着たまま」ということは相手に想いを告げずに愛を貫き去った(肉体的か精神的かはわからない)可能性もある…
その愛の重さ、壮絶な覚悟。訣別の哀しみ。
「男」の想いは「ぼく」の想いになろうとしている。「ぼく」は今から、同じ道を辿る。
墓標を見つめる「ぼく」は、ひどく泣いている。
同じ海辺の「渚」にて、微笑みを湛えながら悲しみと対峙していたあの「ぼく」が、
心が引き裂かれんばかりに嗚咽している。壊れそうになりながら叫んでいる。(秀樹さんの嗚咽が居た堪れない)
「ぼく」がこんなに泣いているので、私も泣いてしまう。
そして、サビの歌詞は、たったこれだけだ。
「きこえて来るような きこえて来るような
嵐が近い 夏の海辺」
読めばこれだけなのに。
レンジも一音を除き、三度の中で展開させているだけなのに。
これだけの言葉が、これだけの音符が、いざ物語に置かれると、
三木氏の重たく鋭いアレンジに秀樹さんの絶望のどん底を突く歌唱が相まって、
「ぼく」と聴き手を、暗雲の立ち込める真っ黒な海辺に連れていってしまうのだ。
1番で微かに響く雷鳴。2番、嵐の足音がどんどん近づいてくる。
叫び続けて「ぼく」の声はもう枯れた。最後にただ聞こえるのは絶望の残像となるコーラス。
稲妻が暗闇に荒れる海面に戦慄の光をもたらす。轟音が海を割る。
「ぼく」は、あなた=青春と訣別した。
この訣別が、後述モノローグの「さよなら あなた」という部分とリンクすると考えている。
この「さよなら」の一言にもあなた=青春と別れる壮絶な覚悟が露わに見える。
私はこの曲を聴くと毎回立ち直れない程号泣してしまうのだが、
その理由がよく分からなかった。
でも、今私が書いてきたこと全てが、私をそうさせる理由だったのだな。
少し話は逸れるが、レンジの話が出てきたところで、音域と音量という音楽的な部分について少しだけ触れたい。
音域のことをよく「レンジ」という言い方をするが、元々「幅」という意味で、音楽ではもう一つ「レンジ」と呼ばれるものがあり、それが「ダイナミックレンジ」というもので、音響機器によく使う用語で、
平たく言うと「音量の幅」のこと。
「太陽の悲劇」もこの「ギターの墓標」も、サビのレンジは決して広くはない。
例えば「太陽の悲劇」は一音を除き、レ、ミ、ファの3つの音で、
「ギターの墓標」も一音を除き、レ、ド、シ♭の3つの音という狭いレンジで構成されている。
それなのに、2曲とも譜面以上にドラマティックに仕上がっているのは、
秀樹さんのボーカルのダイナミックレンジが広いことも一因だと考えられる。
A面の「春」や「秋」も、非常に秀樹さんのダイナミックレンジの広さが伺える。
(ちなみに余談だが、私が聴いた中で一番秀樹さんのダイナミックレンジの広さにおったまげた歌唱は、
何かのライブで歌われた「Sail Away」です)
縦幅を音量、横幅を音域と考えるとわかりやすいかもしれない。
全てフォルテでしか歌えないとか、その逆もありきで、このように歌唱のダイナミックレンジが広い歌手というのもそうそういないのだ。
ちなみに秀樹さんの音域についてもむっちゃ語りたいのだが、ここでは趣旨と異なるので機会を改めて。
【青春のタイトロープ】
「旅立ち-諦観」の章。
タイトロープとは…
①綱渡り用の綱。
②危ない橋を渡ること。
この曲の「『あやまち』じゃない」という詞。
そして、モノローグの「あなたをかばい」の台詞。
物語の中で、点と線が色々と繋がった。
「ぼく」と「あなた」がどのような恋愛をしてきたか、なぜそこまで葛藤をしなくてはいけない青春だったのか…少し見えた気がした。
そして「青春のタイトロープ」まで至って初めて、
シングルの「若き獅子たち」-「ラストシーン」-「ブルースカイブルー」を、線で繋ぐことが出来た。
阿久悠が西城秀樹を通して表現したかった世界の最終形態は、この3曲に見ることが出来るのではないか。
LPの中の横のラインと、秀樹さんの音楽史における縦のラインがこうして絡み合うのも、非常に面白い。
「冬」→「裸体」の入りと同じく、「ギターの墓標」アウトロのコーラスカットアウト→静寂に轟く雷鳴カットアウトという
二段階カットアウトからのコーラスカットインで入るという斬新すぎる始まり方で、二重にびっくりした。
当時の技術でフェードアウトが完全に出来ないのか、などと余計な勘ぐりをしてしまったが、
「デッドヒート」等他の曲は綺麗にフェードアウトなので、これは間違いなく三木氏の意図的な演出である。
個人的にではあるが、私の魂が「ギターの墓標」でかなり戻ってこれないレベルの地の底まで連れて行かれてるので、
この「青春のタイトロープ」の入り、もうワンタイミング待って欲しかった。全く容赦ない。
でもそれも作り手の意図。狙いも理解出来てしまう。
そういうわけで、いっつも「え…まだ無理…」と思いながらも、魂を急いで呼び戻して、居住い正して「青春のタイトロープ」を聴き始めるわけだが、
これが不思議なことで、秀樹さんの歌声が聞こえたその瞬間に、もう私の脳内は「青春のタイトロープ」の世界に染め上げられてしまっているのだ。
あんなに後ろ髪を引かれていたのに。
これは…ano、阿久・三木両氏の術中に見事にはまってしまった、ということか。
そのカットインしたコーラスから始まるイントロは、まさに天上から嵐の黒雲を割り、そしてそこから射す天国の階段のような一筋の光。
まるで教会音楽。
パイプオルガン調のシンセとコーラスの荘厳な響きをそのまま引き継ぎ、それはそれは深い、
諦観したかのような「ぼく」の蒼い声が聖堂に響きわたる。
諦観とは…あきらめ、悟って超然とすること(大辞泉より)
仏教用語でもあるそう。
そう、この秀樹さんの声、俗世的なものとは思えず、どこか聖域的な場所から声を届けているように聞こえるのだ。
一度自らの精神的死を迎え、今「ぼく」がいる場所。皆まで言わないことにする。
「青春はきっと そんなものでしょう」
それまでの愛・葛藤・絶望の全てが、この諦観した一言の裏に隠れている。
過去を過去として受け入れ、青春に「さよなら」と告げて「旅立ち」を選択しなくてはならないのか…という葛藤もなくなったわけではないだろう。
だって「ぼくはまだ あなたのことを思っている」(後述モノローグより)のだ。
しかし「ぼく」は振り切り、「旅立ち」を決意する。
そんな「ぼく」の心の機微が、ものすごく静かに描写されている。
この、「ぼく」、いや、秀樹さんの歌声…
淡々と歌い語る中にも、包み込むようなやさしさを感じる。
あくまで私の脳内風景だが、「フランダースの犬」で天使に囲まれるネロとパトラッシュのイメージなのである。
とにかく秀樹さんの歌声が、深い。深すぎる。このままミュージカルに転用できる。
無限大の声のバリエーションを持つ男・西城秀樹。こんな声も出せるのか西城秀樹。恐ろしいぞ西城秀樹。
1976年当時「表」に出ていた「西城秀樹」のイメージとは恐らく180度異なる声。
この声を、その大きな大きな引き出しから出してくれた秀樹さん、
それ、引き出しから出しなさいよと機会を与えてくれた阿久・三木両氏、
そして録音に残してくれた製作スタッフの皆様にほんとうに感謝したい。
そして、この深くやさしい歌声、絶対たくさんの人に伝えたい。
【朗読(モノローグ)】
全ての言葉に透明感があり、またその言葉それぞれがナイフのような鋭利さを持っており、聴き手の胸をグサグサと刺していく。
そして、演者・西城秀樹の恐ろしいまでのポテンシャルに気づかせてくれたのも、このモノローグであった。
本当は台詞を全篇転載そして一言一言全部考察したいところだが、文字数の関係で割愛する。
恐らくそれをやったら、それだけでこのLP考と同じ容量までいく恐れがあるので…
表現としては、非常にシンプルだ。純朴・朴訥、という表現が適当か。
奇をてらわない、変化球もない。抑揚もほとんどつけていない。
ただ言えるのは、阿久氏がこの台詞を描いた時に頭に浮かんだ情景を秀樹さんが作詞家の意図通りに完璧に咀嚼し、
西城秀樹という非常に薄いフィルターを通して、作詞家の脳内と変わらない情景を聴き手に提供しているだろう、ということ。
余計なアレンジを加えずシンプルな表現にとどめることで、一青年の独白として詞が矢のようにストレートに伝わってくるのだと思われる。
喜怒哀楽とそこにカテゴライズ出来ない感情の機微をこのシンプルな表現の中に見事に盛り込んで表現しきる秀樹さん…
ドラマ「青年」や「ホームスイートホーム」でも感じたが、
演者の基本である「伝える」ことにおいて奇をてらわず心情を台詞と身体に乗せることが出来る方なんだなぁと。
その基本が出来ない人が多いので…(だからみんなトリッキーな表現に逃げる)
感性のアンテナを普通の人の何十倍も張り巡らせておいて、沢山の表現方法を模索しながら、
そこからシンプルな表現に削ぎ落としていかなくてはならないので、大変な作業だと思うのだが、
歌でも芝居でも、こうした朗読でも、サラリとやってしまう秀樹さん。
もっと、ドラマも見たかったな、と思うのは欲張りかな。
最後に、これまでの考察の中でさんざん既出ではあるが、このモノローグと他の曲の歌詞の間に、阿久氏は大小様々なリンクを貼っている。
判別できるものは今までに拾ったつもりだが、まだまだ、見つけられていないものもあると思う。
よく、こんな網目のようなリンクを細部に張り巡らせたものだと思う。
やっぱり…阿久悠氏、レジェンド。
とてもこの文字数では言及しきれないが、とにかくひとつひとつの言葉が宝石のように輝いている。
まるで…青春の日々のように。
阿久さん。このモノローグを秀樹さんに書いてくれてありがとう。
【若き獅子たち】
「旅立ち」の章。
秀樹さんの代表曲は?と聞かれると、恐らく五本の指には入るであろう、大傑作。
私は恥ずかしながら、秀樹さんを好きになる前にはこの曲を存じ上げなかった。
ましてや「LPからの先行シングルカット」などと、誰が想像しただろう。
購入したシングルA面コレクションの中で初めてこの曲を聴いた時、秀樹さんの「さらば あなた」という歌声に
「何かを振り切ろうとする覚悟」が見え隠れし、胸が震える程感動したものだった。
ただ、曲としてあまりに壮大かつ高尚すぎて、
何となく敬遠していたのも事実である。
何となく、詰め込まれているものが多そうだな…と判断した私の嗅覚は意外と使い物になるのか?笑
今、LPを狂ったように聴き続けて、その「詰め込まれているもの」が鮮明にわかった。
そして何故この曲がこんなにもスケールが大きいのかも理解できた。
是非、シングルとしての味わいに加え、ミュージカル「若き獅子たち」の大フィナーレを飾るナンバーとして、多くの人にこの曲を聴いてほしい。
思えば、物語の始まり「デッドヒート」での、弱々しく青い声の、大きくて細い犬の姿。
そこから力の限り人を愛し、沢山の傷を負い、少年から青年への成長を遂げた今、未来へ翔ける雄々しい獅子として、
「ぼく」は広大な草原で勇敢に吠えている。
モノローグにて「ぼく」は自らに問うた。
「ぼくは 獅子になれるだろうか」
本当ならば絶対に離れたくない、永遠に抱きしめておきたい、青春の日々。そして「あなた」。
しかし。
たしかに伝えた「さらば あなた」という言葉の重み。
そう。「ぼく」は、なれたのだ。
しっかりと目を上げ、「あなた」を振り切って、「さらば」と告げたのだ。
ぼくは、獅子になれたのだ…
ミュージカル「若き獅子たち」はエンディングに近づく。
華やかに転調し、獅子のように唸る「ぼく」の明朗な歌声。
未来へ向かい、微かな希望を内に宿し響く歌声のなか、
振り返れば走馬灯のようにこれまでの「ぼく」のよろこび、かなしみ、いたみ、くるしみ、全て思い起こされ、涙が溢れてくる。
「ぼく」が今、獅子として大草原に佇む姿もまた、熱い涙を流させる。
そして、これからの「ぼく」の未来が幸せであるよう祈る、愛おしみの涙。
たくさんの涙が、私を包む。
「風よなぶるな 獅子のたて髪を
涙をかざれない時であれば…」
獅子は力強く猛々しく吠え、アッチェレランドで駆け抜けるように壮大なエンドロールが流れる、そして、幕が下りる。
静寂の中、立ち上がれずにひとり泣きじゃくる私。
秀樹さんはいつもここで、泣きたい時間だけ泣かせてくれる。
やさしいなぁ。
そう言えば、あの朝焼けを見た日も、そうだったな…
泣きたいだけ泣かせてくれるから、また前を見られるのだな。
本当に、力を与えてくれるんだな、西城秀樹というひとの歌声は。
さて。
こうして、ミュージカル「若き獅子たち」はいったんの終わりを見た。
しかし「ぼく」の新たな旅立ちから、また新たな「若き獅子たち」の物語が始まるのだ。
それはきっと、歌手・西城秀樹の物語にも重なり、
それからの物語は、きっとファンの方々がずっと見つめてきた秀樹さんの40年あまりの歩みそのものに違いない。
そして物語はもちろん、これからも続いていくのである。
私たちが未来永劫、西城秀樹を語り続ける限り、ずっと、ずーっと、ずーーー…っと。
全曲考察、終了����
おつ!
〜おわりに〜
「一生青春」
秀樹さんが残した印象深い言葉のひとつです。
その通り、「西城秀樹」という歌手の人生には最初から最後まで、「青春」という言葉が常に寄り添っていたような気がします。
それなのにそんな秀樹さんが、このLPと言い、「北壁」と言い、青春と別れようと苦悩している。
その歌声に私はずきずき胸が痛くなり、またそんな秀樹さんを聴きながら、見つめながら、
なぜか痛々しさすら感じる瞬間がありました。
きっと秀樹さん…いや、木本さん自身にも、やむなく訣別をしなくてはいけない「青春」があったことでしょう。
笑顔の裏で慟哭していたかもしれないし、葛藤に自分の首を絞めそうになったこともあるかもしれない。
このLP「若き獅子たち」と、全く同じ心理体験をしている、という可能性も、ゼロとは言い切れないのです。
歌い手は勿論、作曲家・作詞家の曲に込めた思いを伝える「媒体」たるべき、とは思いますが、
そこに歌い手の、ほんの少しのフィルターを通すことで、その曲はどんな色にも染まるポテンシャルがあると思うし、
そうあって良いと私は思っています。
だから、ほんのちょっぴり、秀樹さんが、もしくは木本さんが、このアルバムに本人としてのエッセンスを投影していたとしたら…
自身と重ねて見ている部分があったとしたら…
そう思うと、その痛ましくもやさしさを湛えた歌声を聴きながら、涙が溢れて仕方ないのです。
「このぼくが生きた みじかいあの時は
あやまちじゃないと思いたいのです」
「青春のタイトロープ」の一節です。
秀樹さん、いや木本さんご本人としても、「青春」に対して同じ思いであったと、
受け入れて、獅子になったのだと、私は信じておきたいのです。
私は勿論、1970年代の秀樹さんを知りません。情報も全て後追いです。
そんな数少ない情報の中でも、秀樹さん(木本さん)のプライベートに言及された発言は耳に入ってきます。
淡々と語る秀樹さんを見るたびに、そんな想いが溢れます。
秀樹さんの屈託のない笑顔を見るたびに、そんな想いが溢れます。
アイドルとしての西城秀樹を全うしようと、一生懸命居てくれたのですね。
ありがとう、秀樹さん。
こんなに好きになったひとが秀樹さんで、本当によかったです。
もう少しだけつづく
