3542日目 『3・11』がきました。 | ふぁんたじーの国

ふぁんたじーの国

のんびり書いていきたいと思います。よろしくお願いします。

今日は施設外就労でした。

2フロアで2時間づつのベッドメークでした。

 

朝にSさんから「水曜日、MFですか?」と聞かれました。

私が「違うよー、室内作業だよ」と言うと、うつむいて「午後2時におわるかな」

と心配気にしていました。

体調も良くなかったらしく、途中からシーツやカバーを剥がす『剥がし』や、

枕の作製をしていました。

 

仕事は午後2時5分ほどで終わりました。

なので、『3・11』の時間は、バスの中で迎えました。

 

あの日は大変でした。電気はすぐに復旧するだろう、と思ってたらなかなか復旧しないし、

地震の後に、ウジエに食料を買いに行ったら、職員さんが「ダメダメ、ガラス割れて入れない」

と来る人来る人に、帰ってもらっていました。

 

仕方がないので、近くのローソンが営業していたので、パンなど少し買いました。

たくさんの人が来ていて、行列ができていました。

1万円札が「使えません」と言われたので、千円札を結構持っていて良かったです。

 

地震中は、台所の食器棚が倒れて、器が割れてガラスが飛び散るのを覚悟しましたが、

なんと食器棚も冷蔵庫もレンジを置いてる棚も倒れませんでした。

縦揺れだったのが良かったのでしょうか?

 

当時は、登米市に住んでいたので、仙台に仕事に行っている母は会社に泊まるだろうと思って、

弟と、居間のコタツで災害ラジオ放送を聞いていました。

夜になって真っ暗になった頃に、母がなんと帰ってきました。

そして「避難するよ」と言います。

まず、車でスグの役場の派出所に避難しました。ガスストーブがついていて、暖かったです。

 

2時間くらいいた後、佐沼町の体育館に避難することになって、移動しました。

しかし、体育館は満員だという事で、同じ敷地内にある、赤ちゃんや幼児を集めていた建物へ避難しました。

ここでは1人に1枚お布団も用意されて、それでも夜は寒かったのですが、なんとか寝ました。

母は、携帯のテレビで地震情報をこっそり見ていました。

 

翌日、ローカル紙の『河北新報』の新聞が配布されました。

1面には【津波で死者300人】と書かれていました。ビックリしました。

私のいた所は、内陸部なので津波の被害は無かったので、本当に驚きました。

 

4日後、山形の親戚の家に行って、暖かい部屋とお布団とTVを用意してもらえました。

お風呂にも入れました。

そこで、初めて津波の動画を見て、酷い被害になっている事を知りました。

 

Yahoo!で、【3・11】と検索すると、10円寄付出来るそうなので、検索しておきました。

ゲームは、『転生したらスライムだった件』の『スラ転』と呼ばれてた方のゲームの

サービス終了が告知されました。

このゲームは最初は一生懸命やっていたのですが、ガチャがあまり出ないのと、

キャラを強くするのに、素材を揃えるのが無課金では辛くて、今ではただのログインゲー

となっていました。残念ですが、まぁ良く耐えたほうかな?と思います。