喜怒哀楽の「怒」、煮えたぎる静かな怒りを描いてみた。 | 夢は小説家ですと本気で宣ふブログ

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文章の世界に魅入られた小娘が、妄想を書籍化しようと奮闘する日記。

 ガランゴロンと大きな音をたててステンレスのボウルは落下した。

「いつまでかかってんだよ!」

 直後に響いた怒号に、キッチン内の空気は凍り付く。

 ぼくは怒られた当事者だというのに、どこか俯瞰的に状況を見ていた。ぼくが混ぜていた卵液がドロリとボウルからはみ出している。卵とパルメザンチーズ、生クリームに塩と黒胡椒。乳製品の高騰している昨今に、決して安くないコストがかかっている。

 先輩は目をひん剥かんばかりに怒っていた、目は焦点を失って怒りに理性を失っている。ぼくは微動だにしなかった。

 先輩の怒りは爆竹みたいなものだ。火のついた導線は、大きな音とともに爆発する。それは近所迷惑で耳が痛くて、そうしていくつかパチパチと弾ける。でも白い煙とともに沈静化するのが常で、ぼくはそのときも怒りが静まるのを待っていた。

 先輩はボウルを蹴飛ばしながら、キッチンを飛び出していく。

 完全にひっくり返ったボウルの端から卵液がにじみ出ていた。

「アイツ、パチンコで負けて気が立ってんだよ」

「どうしようもない奴」

 卵液のつややかな表面に、ぼくの自尊心とか未熟ながらに重ねてきた実績とか経験、その他料理人を志した希望や夢が浮かんでいた。流れ出しては排水溝に注がれていく。

「気にすんなよ?」

「はい」

 ぼくの返事は上辺のものだ。心の奥底、秘めた思いは全部卵液になってしまった。未完成のまま、だれの口に入ることもなく流されて汚水槽へと合わさっていく。

 現実とはそんなものだ。夢や希望も、目標や信念も先人に踏みにじられては試される。「辞めていいぞ」「お前の覚悟はそんなものか」試練は神が与えた運命なのか、それともただ理不尽な障壁なのか。いまはまだ答えも出せずに環境が変わるのを待っている。静かに。