1か月前には決まっていたのですが、告知が遅くなりました。

 2016年4月13日夜に天王寺区倫理法人会ナイトセミナーにて、和魂カウンセラー協会の設立者の桝田良一として講話します。

 内容は、和魂(一霊四魂)でひも解く倫理 in 天王寺

 和魂=一霊四魂を深くご説明させていただきます。

 古神道、日本古来の自然信仰から生まれた日本発祥の一番古い個性学となります。
 神様=人間であるという考えで、神様の魂を4つの個性に分類してのひも解きと、ご自身が、どの個性が強いか弱いかもわかるようなお話をしたいと思っています。

 奮ってのご参加をお待ちしております。

日時:2016年4月13日(水)18時30分~ 開場18時
会場:七田チャイルドアカデミー天王寺本校4階
 大阪市天王寺区北河堀町3-15 S.C.A本社ビル
 北口出口右折歩いて5分
地図:http://www.shichida.ne.jp/outline/img/img_company_map.gif
申込:以下のフォームからお申し込みください。
申込フォーム:

備考:モーニングセミナー→ http://369evt.biz/27/2016/0414_62.html
 3月19日午前中は西宮・越木岩神社での禊カフェ5回目です。

 奮ってのご参加をお待ちしております。

 イベント案内
 →Facebook:【越木岩神社】第5回禊(みそぎ)カフェ 掃除をしてお茶
 →Facebookでの申し込みができない方は、こちら

 昨年の4月に初めての開催をして、2、3か月の1回の開催となっています。
 今年(2016年)に入って初めての開催となります。

 以下、ご案内です。

 越木岩神社にて第5回目の禊カフェを開催することとなりました。
 (次回の開催日時は、禊カフェを終えた時に越木岩神社さまとのご相談で開催が決まります。)

 神社の掃除=禊(みそぎ)をして、その後、お茶をするイベントです。

日 時:2016年3月19日(土)9時~12時
場 所:越木岩神社境内と社務所
    兵庫県西宮市甑岩町5-4
URL:http://www.koshikiiwa-jinja.jp/
参加費:500円(お茶代)
内 容:掃除を2時間程度をし、お茶を頂きます
補 足:お茶会の時にはご自身の名刺だけでなく、お仕事がわかる案内ちらし等があればお持ちください。基本的に配布OKと考えています。
主 催:和魂カウンセラー 松本詠津子 桝田良一

関連サイト
禊(みそぎ)カフェ 狭野神社にて毎月第二日曜日開催:http://misogicafe.webcluster.jp/
狭野神社を応援するサイト:http://sano-jinja.org/
斎田道開を祭ってある陶祖神社:http://ann2.369ch.jp/touso-jinja.html
禊ガールの感想:http://ann2.369ch.jp/misogi-cafe05.html
和魂と出会う
 一霊四魂との出会いの1回目は、2000年に入った時に一度ありました。その時は、そのようなこともあるのねと軽く流れてしまい、記憶からは薄れてしまっていました。
 そして、2回目の出会いが、2012年2月に一霊四魂と出会いました。これは、運命の出会いかもしれません。

1.この時、TOKA会と言うのを積極的に開催中であった
 サービス等価交換TOKA会と言う自らの持っているサービスと目の前の方との等価なサービスの交換を初回はお金を動かさずに実施しようと言う会を積極的に開催をしていました。
 その延長で、2012-02-13(月)夜にメキキTOKA会を開催しました。
 その時にオブザーバー的な立場で参加をさせていただき、交換したのが、NPO法人ライフキャリア協会理事長の出口光さんとの交換でした。詳細は割愛しますが、私の持っているサービスと一霊四魂の学びの講座を交換させていただき、一霊四魂の深いところの学びにはいかないにしても凄いコンテンツであることは理解ができました。それが、出会いです。

2.株式会社メキキの会でコミュニケーションを学ぶ
 1つにBLD(ビジネスリーダー道場)てのに参加しました。
 1つに個の花道場に参加しました。
 1つにBBM(ビジネスブレークスルーミーティング)に参加しました。

3.株式会社メキキのBBM(ビジネスブレークスルーミーティング)の会を主催
 代表では無いのですが、BBMの会として、BigBang藩を六本木一丁目に立ち上げました。2012年6月15日(金)が第一回目の集まりでした。

4.メキキの会とは距離を置くことに
 詳細は割愛しますが、メキキと共に一霊四魂を日本国内はもとより、世界に発信をしていきたいと言う想いは、出口光さんと近い物があったと思います。
 が、私が和魂カードを作ってお見せしたり、いろいろと関係を深めて行くうちに私との条件がまったく合わなくなり、ご縁が無くなってしまいました。

5.和魂(わこん)と言う表現を使うこととした
 和魂は、「わこん」と読ませます。この名称は、私が一霊四魂をひも解いた時に一霊四魂をまとめるのは、直日であり、和魂(にぎみたま)であると気づき、その総称として和魂(わこん)と言う名称を使うようにしました。
TOKA会
 サービス等価交換TOKA会の会に参加をし、積極的に活動をしていた時期があります。

【サービス等価交換TOKA会での学び】
 これからの時代は、お金を介した取引も必要であり継続していくが、一部お金を介さずともビジネスになって行っても良いのではないかとの思いも持ち、力を入れました。
 活動を止められる2013年3月までにTOKA会の自主開催50回程度と応援開催50回程度の合せて100回のTOKA会で1000人程度のビジネスマッチングに関わりました。この会での人脈はとても素晴らしいものでした。どんどん素晴らしい方との出会いがあり、お金では買えないこともたくさん学ぶことができました。
 また、組織を作る学びも多く頂くことができました。感謝です。

1.TOKA会との出会い
 2010年5月に初めてTOKA会に参加をし、その時には興味を持たなかったのですが、同年9月にTOKAオーナー養成講座の交流会にVIP待遇で参加をさせていただいた時にこれは、人と人が繋がる良いツール(しくみ)に成りえると感じ、すぐにTOKAオーナーとしての権利を頂きました。そして、翌月の10月には、TOKA会の自主開催を決めて、東京と金沢にて順次開催を始めて行きました。

2.TOKA会の代表は、はまち。さん
 朝バナナダイエットと言う朝にバナナを食べることでダイエットすると言う方法を世に出したのが、朝バナナ株式会社の渡辺仁氏。一つの事業として交流会の事業の開催を思い付き、2010年5月の開催の初回に私にも声かけを頂いたのでした。

3.TOKA会の関西進出の足がかりは私が作りました
 2010年の10月~12月はあっという間に過ぎて、すぐにTOKAインストラクターと言うTOKAオーナーを自由に養成して良いと言う資格を取り、東京での人材養成を進めながら、関西への進出を視野に入れていましたところ、2011年1月22日には、大阪でのTOKAオーナー養成講座を私主催で開催しました。
 2011年3月11日の震災で一旦、東京でのビジネスの流れが消え、関西に比重が移らざるを得ないと言うのもあったのかもしれません。

4.TOKA会の四国・中国地方オーナー養成は私が立ち上げ
 2011年6月には徳島でのTOKAオーナー養成講座を開催をし、月に数回のTOKA会の開催のお手伝いをさせていただき、その延長で、岡山広島へと規模が広がりました。

5.TOKA会本部から活動停止の処置
 適切でない表現(本部から言うと)ですが、私から言わせていただくと上記の指示がありました。
 具体的に書きます。2013年3月を持って一旦のTOKAオーナー養成講座は、中止とする。半年で次のカリキュラムを提供し、TOKAオーナー養成講座を始めるまで待って欲しいとの言われて、待つが、半年過ぎてもカリキュラムはでき上ってこず・・・ 結局、TOKA会は解散すると言うことで2014年10月10日に解散式を開催しております。私は、参加しませんでした。
義父の死
 2005年6月23日義父が死亡。
 寝ている時に喉を詰まらせて亡くなっています。

【義父からの学び】
 一人の事業家として家族を養い社員を養ってきたことを尊敬します。
 また、家族を作ることの大切さを教えて下さった一人の師でもあります。
 私を家族の一員として認めてくださったことにも感謝です。
 ありがとうございました。

1.私の父としての愛情をくださった
 義父は、私の父に近いぐらいの関係になったと思います。
 それは、妻が結婚した男性だからというのがとても大きいような気がします。
 ある意味、私の妻は、男として生まれてくれば、義父の後を継ぎ、会社を盛り立てて大きくしていたような人間的な器のある人なので、その点は、お父さんは残念がっていたようです。その分、私を大切にして下さったように思います。感謝しております。

2.葬式の日に大号泣した
 義父を突然に亡くして、私自身、焦燥感と言うか、あり得ないことが起こった訳で、混乱をしました。
 長男はこの時、小学1年生、おじぃちゃんである義父の膝の上にいつもいましたので、おじいちゃんが亡くなったことを覚えているでしょうし、私が葬式の火葬の時に大号泣したのを長男は覚えてくれていると思います。一人の大切な人の死に向き合うことは、大切なことだと思っています。

3.義父の会社は清算
 義父の持っていた会社は、義父が細々とできる範囲で続けていた程度でしたので、父の死とともに解散の処理で動き、自社ビルも工場も手放しました。