今日のNews別冊 第191回 座標軸 (2009年1月28日分)
エスエイチです。
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世の中を見るときにどの視点から見るかというのは大事です。さらに、複数の視点から見ることができるのはもっと大事だと思います。
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今日のNews別冊 第191回
コラム 理科系のための経済・金融の話 第15回
~座標軸~
物理学の世界では、同じ現象でも座標軸のとり方によって見え方が変わってくる。例えば、太陽系を外から眺める(つまり慣性座標系から眺める)と地球は太陽の引力によって絶えず加速されている。その結果が地球の楕円運動である。これを地球から眺める(つまり非慣性座標系から眺める)と遠心力という仮想的な力が働いて太陽による引力とつりあっているように見える。
経済現象の場合にも座標系のとり方は重要である。私達が物価といっているものにはいろいろな計算式がある。共通しているのは、物価は通貨という座標系で計った量であるということだ。しかし、物価もまた一つの座標系となることができる。そして、経済を考える場合には通貨によって考えるよりも物価によって考えるほうが多くのことを理解しやすい。
私達は普段の生活で通貨による座標系を使っている。食糧品店で買い物をするとき、このりんごは128円、こちらのりんごは148円というように日本の通貨である円で考えている。1年前には98円だったりんごが今は128円になっているのを見ると、3割ほど値上がりしたのだと考える。
他の物の値段が変わっていないならこれは正しい。しかし、大きく物価が変わっているのであれば、この直感は間違っている場合もある。そういう場合には、平均的な物の値段、すなわち物価を基準に使ったほうが良く理解できることが多い。
例えば、デフレのために米・灯油などほとんどの物の値段が同じ時期に2割下がっていたとする。最初、10キロの値段が4000円の米と比べると98円のりんごはこの米245グラムと同じ価値があったことになる。それと同じりんごが128円になったとき米が3200円に下がったとすると、りんご1個の価値は米400グラムに増えている。米を基準にするとりんごは63%値上がりしたのである。
江戸時代のように米本位制なら米の重さを基準にしても良いが、現代社会ではそういうわけにもいかない。そこで使われるのが消費者物価指数である。これは消費者が毎年同じだけのものを消費すると仮定して、そのために必要な通貨の増減を計算したものだ。
物価という座標でものを見ると、世界は違って見えるようになる。「昔の金利は5%以上あったのに今の金利は1%以下しかない」、というのは通貨による座標からの世界だ。物価の座標を使って見ると、「昔はガソリン1リットルを買えるお金を貯金しておくと目減りしたが、今は長く置いておくほど買えるガソリンの量は増える」という世界が見えてくる。
世界大恐慌のときには都会には失業者があふれ、街頭で配られる無料のスープの列に並んだ。物価の座標で考えると、大恐慌になったことで食糧の生産が減ったわけではない。失業しなかった人たちの給料は物価と比べると増加し、彼らの寄付で失業者の食事がまかなわれたのだ。言い換えるとワークシェアリング(仕事分担)の世界からチャリティー(慈善)の世界に変わったということである。
経済学者の中には不況の時にはインフレを起こすべきであるという意見がある。また、ワークシェアリングを行うべきであるという意見もある。物価という座標から見ると、この二つのことはかなり近いことをいっている。どちらの方法でもかまわないが、もう少し貧富の差を小さくしたほうが幸せな社会になるのではないだろうか。
今日のNews別冊 第190回 原因と結果(2009年1月20日分)
エスエイチです。
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原因と結果の関係は良く間違います。たまたま同じときに起こったことを関係があると思ってしまうことは良くあります。また、過去の経験から自由になれないことも、因果関係を誤解する原因だと思います。
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今日のNews別冊 第190回
コラム 論理的に考える 第2回
~原因と結果~
経済学の世界には多くの原理は等式で示されることが多い。等式はいくつかの量(変数)の間の関係を表している。例えば、1個100円のパンを10個売ったときの売上は1000円になるが、これを式で表すと「総売価=単価×数量」と表される。
これらの量の中には自由に変わるもの(独立変数)もあれば、他の量によって決まってくる量(従属変数)もある。どの量が独立変数であり、どの量が従属変数であるかは、どういう状況でどういう問題を考えているかによって変わってくる。
例えば、ある国にはパン屋が一軒しかなくパンの代わりに食べるものもないという状況を考えてみる。国民はこのパンを買わなければならないので売れる数量は人口によって決まってしまうことになる。この場合であれば単価が独立変数であり、パン屋は単価を変えることで総売価(=売上)を変えることができる。この場合には総売価が従属変数になっている。
この国にパン屋が数多くある場合を考えると状況は全く変わってくる。あるパン屋が売上を増やそうとしてパンを値上げすれば消費者は他のパン屋でパンを買うようになり売れる数量が減る。つまり、単価を独立変数だと思うと数量が単価によって影響を受けるような従属変数になり、総売価もその従属変数になる。
空腹な人がなるべく沢山パンを買いたいと考えている状況では、総売価が独立変数で、数量が従属変数になる。なぜなら買う人にとって単価が変えられないなら、所持金によって買えるパンの個数が決まってくるからだ。
経済現象を考えるときに、何が独立変数であるかを誤解すると全く誤った推論をしてしまうことになる。例えば国内総生産について「国内総生産=労働生産性×労働時間」という式は正しい。しかし、どの量が独立変数でどの量が従属変数なのかは状況によって違う。
第二次世界大戦直後の日本のように、生産能力が低く売り手市場であるような状況では労働生産性と労働時間は独立変数であり、国内総生産はその従属変数となる。国内総性差を増やすためには生産性を上げることと労働時間を増やすことが必要だったのだ。
しかし、現在のように需要が少ない買い手市場のときにはこれは成り立たない。国内総生産のほうは需要によって決まるので独立変数と考えた方が現実に近くなる。この場合、労働時間が長くなると生産性が下がる。すなわちたくさん働くほど生産性が落ちていく。
何が独立変数であるかを間違えることも多い。"不況だから自動車の売上が落ちている。販売額=単価×台数だから、単価を上げよう"とか"台数を増やすために工場を作ろう"という誤りは多くの人が気づく。しかしこれと同じ論理を使っている"日本の食糧自給率が低い。だからもっと米を生産しよう"という誤りには気づかない人も多い。米の消費量は米の生産量によって決まる量ではない。米の需要が減っていることを無視して米を増産しても自給率は上がらないのだ。
今日のNews別冊 第189回 言葉の定義 (2009年1月14日分)
エスエイチです。
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世の中では非論理的な議論が数多く行われています。何故、人は論理的に考えることができないのかについて書き始めて見たのですが、とても一回で送れる量ではありません。そこで、まず最初の部分をお送りします。
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今日のNews別冊 第189回
コラム 論理的に考える 第1回
~言葉の定義~
経済の話をしていると、しばしば話がかみ合わないことがある。使っている言葉の意味を理解していない場合もあるし、因果関係を誤解している場合もある。いずれの場合にも議論は成り立たない。また、マクロな視点で見ていないために部分部分で最適な話しかしていないことも多い。
言葉の意味を理解していない場合で多いのは、意味を調べずに名前からその意味を勝手に想像している場合だ。これは経済学の側にも誤解を招きやすいような名前をつけていることが多いという問題がある。また、経済学の用語には倫理的な意味合いはないにも関わらず、それを倫理的に捉えている場合もある。
例えば、生産性という言葉にはいろいろな定義がある。定義を明確にして議論をすれば良いのだが、複数の定義を混同して使うと議論が成立しない。特に定義をせずに議論する場合には日本政府やOECDが使っている生産性(すなわち労働生産性)とするのが普通なのだろう。それは唯一の「生産性」ではないが、過去と比較する場合や他業種や他国と比べる場合には、この「労働生産性」以外では難しいのでこれが使われているのだ。
日本政府やOECDが使っている労働生産性は「生産」という行為とは必ずしも関係しない数値だ。しかし、名前しか見ない人たちは、「生産性」という名前に惹かれて「生産」の「効率」であると考えて「生産性向上」の議論をする。
日本政府やOECDよく使われる「労働生産性」によると、1万円で仕入れた商品に2万円の定価を付けて1時間で売った商人の生産性は、100時間働いてキャベツ1万円分を作った農家の生産性の100倍以上になる。商人は「生産」は行っていないが「生産性」は高いのだ。
この場合の「生産性」は「付加価値÷時間」である。付加価値の定義は大雑把にいうと「受け取ったお金-仕入れなど支払ったお金」である。商人は1時間あたり1万円の「生産性」をあげたが、農家は(1万円-肥料などの代金)の100分の1である。1時間あたり100円以下の生産性しか実現していないことになる。
「生産性」が高いことは「良い」ことでもない。それは単に数値が大きいことに過ぎない。例えば日本で最も生産性が高い業種は石油業界であり、1時間当たり186,804円程度である。石油にはさまざまな税金がかかるが、それは「仕入れなど支払ったお金」とは計算しない。従ってその税金も生産性に反映されるのだ。石油産業で働いている人たちにとって、給料とかけ離れた生産性は意味がない。通常使われる「生産性」はそのための指標ではないのである。
このような話をすると、"その生産性の定義は間違っているのではないか"と主張する人もかなりの数が存在する。その場の議論で別の「生産性」と使うのはかまわないのだが、そうやって出た結論を他の「生産性」に適用してはいけない。言葉の定義に無頓着な人は、しばしばその混同をしてしまい間違った結論を出す。
「国内総生産を増やすためには本当にものを生産している工業や農業の比率をあげるべきだ」という意見は、自分で定義した「本当のものを生産する生産性」と統計でよく使われる「国内総生産」を間違ってつないでしまったことによる誤解である。少なくとも統計情報など他の人が作成した資料に出てくる言葉は、その定義を良く理解したうえで使うべきである。