彼岸花が散るころに・・・

 

 

秋待ちわびて、昼の長さと夜の長さがひとしくなるころ

ラグビー練習場の外塀の端っこや民家の生垣の裾に

住人の歩き場所を諭してくれるかのように咲いていた

彼岸花

彼岸と三途の川をはさんで

こちらの岸は此岸 (しがん)というらしい

 

三途の川は大河ではないらしい

此岸の縁には対岸に渡りたい人が集まってくる場所がある

 

2人のオッサンがロープを張り、

渡ってもよい者とそうでない者を選別するらしい、

「よし、いいぞ」「お前はだめだ」と

老若男女、長く待たされる者もいるが、若造でも膝まで水につかりながら、じゃぶじゃぶと渡っていく者もいるらしい

 

待たされ疲れてふっと気づくと

自宅の薄暗い天井の電灯の明かりが目に入った

畳に敷いた布団に寝ていた

家人が呼んだ救急車で運ばれ即入院

 

病棟で先に入院していた老人と目が合った

お互いに「アッ!」と叫んだ

三途の川の此岸の縁で、飽きるほど長く待たされた者同士!

それまではお互い見ず知らずで名前も知らなかったそうだ

・・・

これは、数年前にいまは亡き母の付き添いで訪れた

ある総合病院の診察室前の細長い待合室で

脳卒中を患った50代手前の男性から、

隣り合わせになった人たち2,3人と共に

聞いた実話です

 

 

人生100年時代とはいうが、高齢者等が住み慣れた地域でそれまでの生活環境を維持させて暮らせるための

「地域包括ケア」という行政・福祉用語を目にするようになった

あらゆる社会資源のネットワークでサポートされて、

ご近所ともども、風通しのよい弱い紐帯で支え合いながら、

高齢になっても、住み慣れた地域で生き続けられるらしい

 

この「地域」というもの、何だろう?

少なくとも、先述の二人は、その総合病院に来れる同じ「地域」の住民だ

あの世の入り口にまで関わってくる「地域」とは・・・

 

彼岸花が散るころに

 

 

                              

 

                           2022/09/27記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  雑談ですが、 

 あれは確か4年前の五月晴れの頃でした・・・・・・

 

外国産のキャベツの苗をもらいました 網を被せて大切に育てました   

でも葉は虫に喰われっぱなしで・・・

ある日の朝、もうダメだと思い、網を外したとたん、

生まれてから一度も見たことがないほど美しい大きな蝶が

葉っぱの中から、ゆっくりと羽ばたいて飛び去っていきました

 わたしは召使いのように

このお美しいお姫様をお育てしていたのだということが

その時分かりました 

夢のような瞬間でした・・・ 

 

 

 

                                2021/05/03     s.mayumi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エスプレッソとコミュニストほか

 

先日、貯めていたサービスポイントでエスプレッソ専用のポットを購入した。

それは、あるお宅で頂いたエスプレッソの美味しさが忘れがたかったからである。

珈琲の愛飲歴は比較的長い。

私が育った家庭は質実であったが、

両親は淹れたて(母は「おとしたて」と言っていた)の珈琲を好み、

時間が経ったものは惜しげなく流しに捨てていた。

ちなみに、ここでいう珈琲はドリップ式で作る珈琲のことである。

 

コーヒー

年季が入った喫茶店の前を通ると、

その建物に染み着いているような珈琲の匂いに、ふと足が止まる。

私が小学生のころ、両親が喫茶店を開くに至ったことがあった。

父は会社員だったので、実際は母がやった。

珈琲は、一回に10杯分ほどを円錐状の布で濾して淹れた。

大きなホーロー製の白いポットがカウンターの中で常に湯煎されていた。

そのカウンター裏には壁がべニア合板のままの5畳ほどの休憩室があり、

子どもの私は、その部屋なら居ることを許された。

たまにドアが突然開き、母が珈琲豆を赤色のミルで素早く挽いては戻っていった。

珈琲豆の匂いが充満する中、ひたすら閉店時間になるのを待った。

薄い壁の向こうからは、BGMの音に混じって、お客やウエイトレスや母の声がしていた。

今でも「太陽がいっぱい」という曲を聴くと、

あの珈琲豆の匂いがする部屋を思い出し、ちょっと切ない気持ちになる。

 

コーヒーコーヒー

私の仕事仲間でもある友のお伴で、長年、フィンランドで教育や研究に携わって

いらっしゃった老先生の長野県の別荘にお邪魔した折の事である。

キッチン兼居間のテーブルには、

小ぶりなコーヒーカップが、私たち二人のために伏せて置かれてあり、

中央には、ガラス製の小さな器にチョコレートが盛られていた。

黒赤茶色に錆び、ひどく汚れた銀色の小さなポットは、コーヒー粉を詰められて、

コンロの火であぶられ、口からシューっと勢いよく湯気を噴出した。

小さなカップに注がれた、恐ろしいほどに濃いコーヒーは、

そっと口の中に流し込むと、

何と澄んだ美味しさか。

 

老先生「このポットはね、僕が20代でフィンランドに留学した時に、

寮で同室だったシチリア島出身の青年からもらったモノなんだよ。」

老先生「そいつはね、ばりばりのコミュニストでさぁ・・・」

「えっ?シチリア島といえば、マフィアの・・・極右(??)では?」

老先生「いやいや、だからこそと言うべきか・・・」

 

・・・それで、

もう一度あのようにしてエスプレッソを飲みたいと思いポットを手に入れた。

十数カ国以上の言語で書かれた“取扱い説明書”を読んでやや納得がいった。

何と、当製品はイタリアはシチリア島で発明され、今や世界中で愛用されていること。

使用後はぬるま湯ですすぐ程度にし、決して洗剤等で洗ってはいけないこと。

でも、コミュニストが誕生する思想的背景までは書かれていなかった(笑)。

 

コーヒーコーヒーコーヒー

 

やれやれ、たいそう夜も更けてまいりました。

ここまで、お読みくださった方へお礼を申し上げます。

ありがとうございます。 おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

市民有志が創った

東京都国分寺市本多公民館の

愛すべき中庭

ダウン

それは楽しそうな笑い声から始まった・・・

 

東京都JR国分寺駅から歩いて7,8分のところに、

やや旧い公民館がひっそりと建っている

主婦が一人、大学生らしき男性が一人、そしてまた、

幼い女に子を連れた若いお母さんが一人

中年や初老の男性も

入って行く

 

この公民館のすっかり荒れてしまっている中庭を

再び生き返らせることに興味ある人たちが

2階の集会室に集まってきた

 

私も初期段階で講師として参加

 

アイスブレイクのためのゲームで和やかになったあと、

「中庭づくり」をテーマに、

みんなで楽しむグループワークが始まる

        

 

大きな模造紙にそれぞれが造りたい「中庭」のイメージを

文字で書き、イラストでも描く

参加者はみな無邪気にならざるを得ない・・・

ファシリテーター(私)のストップウォッチが

無情にも時間制限をする!

 

回を重ねるうちに、

誰ともなくレイズドベッド(スタンド型の花壇)を

作ろうということになり、

市役所営繕課の有志の皆さんの協力のもと、

本格的な工作作業に発展していく

 

その内

コロナが流行しはじめたが、

みなの頭の中に描かれた

あの「中庭」は消滅してはいない!

私も共に作業に参加し続ける

 

プンプン

笑い泣き

 

かって、この公民館の中庭を

“ミントクラブ”なる集まりが手入れをしてくれていた

今は、ご高齢になられたその方たちも再び訪れていただける

バリアフリーの「中庭」

 

図書館から出てきて、パラソルの下でも読めますよ、学生さん

アイスティーは館内レストランから・・・

その内、パッションフルーツの茎が這う壁が見られるらしい

ピザ窯も入れようと誰かが言った

夕暮れの音楽イベントが企画されたがっている

 

国分寺市本多公民館の中庭

ほどよい広さと慎ましいが愉快な仕業の成果・・・

国分寺市民でなくても大丈夫とのこと

いつか訪れてみてはいかがでしょうか?

 

ラブラブ

 

 

 

 

 

 

ちょっと古い話になりますが、

自粛期間を乗り越え、

友人と不要不急の外出をしました。

 

ダウン

 

梅雨明けの8月初め、まずは日本橋の小網神社にお参りに・・・

ダウン

 

そろそろランチタイム。予め調べておいた新橋の台湾料理店を目指す。

「美味しい!中にこんなに大きな豚の角煮が・・・!」と

友人が小さな歓声!

確かに美味しい。

が、昔もっと美味しい台湾料理を食べたことがあった・・・。

 

学生時代に東京都内の雑司ヶ谷の寮に居た頃がある。

隣室の台湾からの留学生Kさんと知り合いになった。

Kさんから幾つか料理の作り方を教えてもらった。

味わい深い餃子の餡の作り方。

料理の種類によって変える八角の使用量など。

 

Kさんは明るい快活なお嬢さんだったが、

ご両親は戦前の日本で高等教育を受けられた、

大変に美しい日本語を話される

もの静かで上品な方々だったのを記憶している。

本(内)省人の家族であった。

 

時は経ち、

私が某大学の常勤教員をしていたころ

台湾からの留学生たちも教えたことがあった

 

台湾の若者たちは、休憩タイムになると

日本の若者たちと一緒に笑い喋った

 

「本省人と外省人」と表現される

台湾社会の不条理さを多少思いながら

そのお喋りを聞いていた

 

一人の真面目な院生が

「私の両親は、外省人と本省人で結婚しましたので・・・」と

言い出したので、私は内心驚いた

徐々にそのような結婚が増えているとも言っていた

 

時の流れは何かを解決するのか

人と人の出会いで奇跡の種は蒔かれるのか

 

 

やしの木やしの木やしの木

時代は次へ

 

新しく進む国、台湾ができあがっていくのを

私が出会った若者たちの姿を重ねながら

心から願っています

 

 

(2020/08/26)