「春爛漫(らんまん)の候、皆様にはお元気にお過ごしのことと思います」
 あけぼの町の総会で配布した案内の冒頭部分に記そうとした一文である。

 季節の挨拶ではおなじみの決まり文句であるが、今になっても、「と思います」の部分を繰り返し音読しては、「とお慶び申し上げます」にすべきか、あるいは「お喜び申し上げます」にしようかと思い悩んだ末に、「春麗(うら)らの候、町会の皆様方にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます」という極り口上に落ち着いてしまうのであった。

 格式張ったことを忌避(きひ)するわりに、形式を重んじる儀式のような場に臨むと、あえなく無難な格式のほうに席を譲ってしまうのは、自身の中に軽薄を疎(うと)んじる気持ちが優(まさ)っているからだろうなどと思ったりする。

 冒頭の一文は、軽い感じは否めないものの別段軽すぎる文ともいえず、今様で形式張らないニュアンスがあって多くの人が受け入れてくれる表現ではないかとさえ思う。

 さて、「春爛漫(らんまん)」を「春麗(うら)ら」にしたのは、毎年繰り返される言葉のマンネリを打破すべく、春らしい季語を詮索するうちに、ふと思い浮かんだ言葉であり、特に意味があるというほどのものではない。

 意味的に「花が咲き乱れる光景」を思わせるフレーズと「若葉が陽の下で明るく穏やかに咲いている様子」を想像させる違いはあるが、四季の始まりを表すという意味ではさほどの違いはなさそうである。

 今年は遅い桜の開花の後では例年通り白い木蓮(もくれん)の樹木が街路に沿って咲き連なり、赤い曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が後につづいた。忙しさにかまけて放置していた隠れ家の、西側の地面にはポピーが群生し、オレンジの細長い首を風雨に揺らしていた。

 このポピーについてはナガミ・ヒナゲシという名の、毒性の花に似ているので、整地のために刈り取るときにはラバーつきの軍手をはめて除去したのである。なんでもアルカロイドという成分に触れると皮膚が荒れると聞いていたので用心のためであった。

 梅雨の走りというにはまだ早く、4月に降る雨を菜種梅雨とか春霖(しゅんりん)と言うそうだが、むしろこれから作物を育てるのに必要な恵みの雨であることから、穀雨(こくう)という呼び方もあり、ぼくは4月に雨が降ると、よく穀雨という言葉を使うことにしている。

 5月まであとわずか。歳のせいか光陰はやけに速い。今はゴールデンウイークというネーミングのつけられた連休に入っている。連休が終わると動脈硬化症を患っていたゴマフが退院して隠れ家に戻ってくる。カフェの開店も近日であり、いまの忙しさは「もしも」の課題に取り組んでいるからなのだ。そのための軍事訓練、否、開業に向けての訓練、リハーサル中なのである。

「もしも」の課題とは、「もしもお客が越境してきたら」という心もとない想定に対処するための課題のことである。One-opeにとって、この夏が一番危ないのだー。

  春霖や
 夜会に 遺作の
 貫きて