A Ladybird At Noon



 “In the early afternoon when lazy clouds float in the sky,
 I will surely go and see a sunflower.”
 そんな書き出しで始まる詩を書いたのは、もうかなり昔のことになります。籬(まがき)の向こうに咲く向日葵を憧れの人になぞらえて詠んだもので、まさに青春のただ中、ときめきの季節と重なっているようです。

 音楽を愛し、日を空けずにギターの弾き語りを披露し合っていた青春時代。歌好きが集まれば、歌いあっては青春を謳歌するしかない。その様子は、冒険好きの子供たちが顔を合わせれば日暮れまで夢中になって遊びほうけるのと、どこか似ています。

“Sunflower”と名付けたこの詩は、そんな青春の熱気の中から、ある日ふいに湧き上がってきた叙情的な詩です。もともと韻を踏むように作詩したわけではなく、楽曲のために書いたものでもない。あえていうなら憧れという心情を、冷静と情熱を抱えながら綴った詩といえるでしょうか。ほどなくして英詩にも訳したのですが、その時点では、とても楽曲になるような詩だとは思ってはいませんでした。

 あれから40年。いや、正確に言うと48年の歳月が流れ、世の中が急速に何かに向かっている感じがしている今日この頃。ITの世界だ、AIの時代だと世間がかまびすしい中で、ふと周りを見回すとあらゆる物が物理的に進化を遂げている。言葉のほうもゆっくりと時代の空気を読み取りながら新しい語彙を産生しています。

 あの青春の日に書いた詩(プロンプト)を、いま猛烈な勢いで進化し続ける人工頭脳(AI)に投げ込んだら、いったい何が生まれるのだろう。そんな48年後のAIとの邂逅を機に、lyricをそのままの形で託してみました。それが今回の楽曲。絶対に歌にはならない、と半ば放念していた詩を、しかし人工頭脳は事もなげに生成してしまったのですから驚きです。

 思えば、「楽器の王様」といわれるピアノが登場した時代もそうでした。チェンバロやハープシコードに親しんでいた人々にとって、新しく出現したピアノは「音の大きすぎる騒々しい楽器」に映ったといいます。

 AIによって生成された音楽も、芸術に対する冒涜ととらえられてしまうのでしょうか。しかしながら、ひとつの試みとして、この神にも似た力を持ち始めたAIの可能性に託したのは、もう一つの世界を垣間見てみたいという好奇心も手伝っていたに相違ありません。


 

 

最近、スマホのバッテリーの持ちが悪くなってきたことに気づいた。そろそろ交換の時期だろうと思い、営業所を訪ねることにした。メールのやり取りが頻繁にあるわけでもない。せいぜいユーチューブを眺めているうちに夢うつつとなり、そのまま一時間以上ほったらかし、という使い方が増えただけである。

「最近」といっても、この一年ほどのことだ。就寝時には電源を切ることを忘れないようにしている。それでも使わずに済むわけではないから、経年劣化は避けられない。スマホもいい加減いい歳なのだろう。十年とまではいかなくとも、おそらく七、八年は経っているはずだ。

営業所でスタッフに尋ねると、バッテリー交換自体は可能だという。ただし機種の構造上、交換ではなく修理扱いとなり、二、三週間はかかるとのことだった。ちょうど諸々の用件が重なっている時期でもあり、そう簡単に預けるわけにもいかない。

新機種に買い替えるとなると、アドレス帳やスケジュール、手書きのメモ、メッセージやメールの履歴。どれもそう簡単に手放せるものではない。引き継ぎはスムーズにできると言われても、初期設定を一からやり直すのかと思うと、それだけで気が遠くなる。

「もうしばらく、だましだまし使いますよ」

そう言って営業所を後にした。

この日はその足で新宿まで出る用事があった。イベントの景品として配ったビール券の有効期限が、今年の3月31日で切れていると来場者から指摘を受け、新しいものと交換する約束をしていたのである。

受付で件のビール券を差し出すと、「少々お待ちください」と言われ、係員は奥へ引っ込んだ。やがて上司らしき人物が現れる。

開口一番、「ご購入はいつ頃でしょうか」と問われた。「三、四年前でしたかね」と曖昧に答える。もっと前だった記憶はあるが、七、八年とはさすがに言い出しにくい。すると相手は顔を曇らせ、もう一度同じ質問を繰り返した。何かを確信している様子である。

「七、八年前だったかも……。いや、それよりこちらを見てください」

そう言って、手元にあったもう一枚のビール券を差し出した。「同じ時期に買ったものですが、こちらは有効期限が来年、2027年3月31日になっています。同じ袋に異なる期限のものが混じっていた、ということになりますよね」

こちらの落ち度ではない、と言外に示したつもりだったが、相手は首を縦に振らない。

「もし本日ご購入であれば、有効期限は2031年3月31日になります」

思わずのけぞりそうになった。今年は2026年。2033年は7年後だ。7年。

その数字から、こちらの記憶が芋づる式に引き出された。期限切れの券を購入したのは2019年。コロナ禍の前年、カフェを借り切って初めてイベントを開いた年だ。そして翌年、補充のために買い足した。そのときの券の期限が2027年3月31日。今、手元にあるもう一枚である。

「なるほど、分かりました。それにしても、他の商品券には期限が書かれていないのに、なぜビール券だけ明記されているのでしょうね」

マスク越しに、店員は目を見開くだけだった。

「解せませんよ」

法律も同じだが、書かれたものには妙な力がある。理不尽であっても、文字になった瞬間に抗いがたい重みを帯びる。証拠、というやつである。

ひとしきりのやり取りを終え、ほとほと疲れ果てたぼくは、デパート一階の甘味喫茶にしけ込んだ。糖尿病の治療中であることなど、この際どうでもよかった。傷ついた身には、甘ったるい慰めが必要だったのだ。

その店は、新宿の老舗「時屋」であった。

久しく遠ざかっていた甘味の世界へ誘われるように、ぼくは「白玉クリームあんみつ」という名の毒を、スプーンに乗せて口の中へと運んだ。

 

 

 

居を駒沢に構えてから下北に行く機会がめっきり減った。というか、ほとんど行かなくなった。以前なら月に2回、週末の金曜に下北経由で渋谷行きの井の頭線を利用したものだ。

下北を経由していれば、気まぐれであれ、寄り道にしても途中下車をしてあづま通り商店街を散歩がてらに歩きまわることになる。楽曲の練習にNoah というスタジオを借りて練習に勤(いそ)しんだりもした。

そういうローテーションが何年も、何年も続き、気がついてみれば白髪混じりの爺さんになっていた。(笑) いよいよとなればこんな徘徊をやめて老人ホームの厄介者になればいいと思う。

福祉政策がしっかりしているから日本では老後に困ることはなかろう。アメリカなら公園のベンチに座ってブックエンドの一風景に収まることだろう。S&Gの歌の中で描かれるブックエンドは60年代後半のアメリカの風景だった。

いまさらながら、今になってブックエンドの歳になっていることに不思議な感慨を禁じ得ない。同時にブックエンドにならなかった自分の幸運を有り難く思う。細く長く生きてきたからだろう。

これも細くて長い蕎麦をこよなく愛してきた効用だろうか。やはり「長生きするにはそばがいい」なんて、真面目にこんな効用を信じる人はいないと思うけど、蕎麦の成分である「ルチン」だけは信じる価値がありそうだ。血管系の生活習慣病の予防にいいらしい。

別段、エイジングケアの為に行くわけではないが、蕎麦前の肴として「揚げ出し豆腐」喰いたさに久しぶりに下北に向けて脚を早めた。茶沢通り沿い、代沢5丁目バス停にほど近いところにある蕎麦屋である。

夕闇が迫る金曜の夕刻。明かりが漏れる扉を押すと先客で席が埋まっている。女店員が近づいてきて「おひとりさまですか」と問われる。人さし指を一本立てると「こちらへ」と言って手で空いた席を指し示した。

上着の脱ぎ終わるのをじっと待っている。腰を掛け、正面のお品書きを手に取って少し目を泳がせ、間を置いてビールと「揚げ出し」を注文する。帳場にいても厨房の状況を把握しているらしく、すぐに「揚げ出し豆腐は時間がかかります」と言ってほかの酒肴を勧める風である。

「揚げ出しを食べに来たんだけど」とやや不満げに顔を曇らせてみせた。店員は「揚げ出し」に時間を譲る気はなさそうである。懐柔策が浮かばなかったので、再びメニューを取り上げ、しばらくお品書きの上をさまよったあげくに「酒肴五点盛りを」と言ってメニーを衝立に収めた。

五点盛りの数の多さに、また断られるだろうと身構えたが、店員はすんなりと受け入れ厨房に向かった。五点についてはすでに仕込みができているからだろうと思った。板わさでちびりちびりやっていると「五点盛り」が雅な趣をもって運ばれてきた。

鴨のロースト、豆腐の味噌漬け、えいひれ、塩辛クリームチーズに小鉢に盛られた明太子おろし。どれも初めてで食べ方が分からないものもあった。特別純米酒・奥八仙を嘗めながらソムリエ気分で味わっていく。逸品ではないが八仙との相性は悪くなかった。

揚げ出し豆腐との相性もまあまあ。こちらは毎度のことで、揚げ出しの出汁にそばつゆを使っているせいか安定したかつお風味が口腔に馴染む。八仙の評に「キレがいい」とあった。「緩やかな後味』に芳醇さが口一杯に広がって甘い味わいが至福を誘う。

「本日のそば」は北海道「音威子府(おといねっぷ)」産であった。炭のように黒みを帯びている。イカスミではなく、そば殻の挽き臼仕込みのため黒ずんでいる。人気が上昇しているのはブラックというカラーの奇抜さからであろう。

                                   

いっとき富山のラーメンが黒さゆえにラーメン界の寵児となったことがある。漆黒の醤油と黒こしょうを使ってラーメンファンの人気を集めたが、「珍しさも手伝って」の域を超えることはなかった。音威子府(おといねっぷ)のそばは単にそば殻ゆえに黒いだけで日本三大蕎麦の仲間入りにはほど遠い気がする。

ところで、ぼくがこのために食べに来たという「揚げ出し豆腐」だが、肝心のトッピングとして盛られる白髪ネギは、産毛をちらしたような白羽ネギに代わっていた。

「店主も年をとったなあ」
嫌みではない。同情である。
                         
 

 

 そぼ降る雨の中を有楽町に向かった。AI博覧会Spring 2026が開催されるというので、物見遊山のつもりで、老体にむち打っての外出である。ITのつぎはAIだと喧伝されている。まわりで「AI、AI」とかまびすしいので好奇心のとりことなるのは自然の成り行き、個人的な課題もあって出向いたというわけである。

 ChatGPTなる新語を初めて耳にしたのは、台湾出身の中国語の先生が日本語の文章作成のときにChatGPTという便利な人工知能を使っていると話された時である。日本語のニュアンスは難しく、簡単な文章でメールのやりとりはできるが、商品説明に日本語を使うとなるとさらなるブラッシュアップの必要を感じると語られた。

 AIに文章を手直しさせることを、AIの世界では「生成」というそうである。自分で書いた文章を[書き込み欄]にコピペ(コピー&ペースト)して、「推敲してください」と指示を渡す。するとAIによって生成された文章が短時間で返ってくるという仕組みである。秋葉原の喫茶店で先生から最新の人工知能を知ったのは3、4年前のことだったろうか。

 スマホにChatGPT機能をインストールしてもらったが、そのまま使わずに年月が経ってしまった。そうこうするうちに、AIは進化を続け、ChatGPTだけと思っていた人工知能はいろいろな形態で進化し、画像、アニメ、音楽も生成可能といった長足の進化を遂げていた。

 一度たわむれに、以前作った詩の文字列をコピペしてその詩に相応しい音楽を作ってくれるようプロンプト(prompt指示文)を送ると見事に女声の歌唱が生成(作曲)されてきた。ただし詩の一連に付き30秒という制限がかかっていたので五連の詩では5個のブツ切り曲になってしまい。これでは一曲の完全版にならないといううもどかしさが残った。

 じつはこの断片的になった5つの曲をつなげて一曲に仕上げたいという思いが募り、それを最新版のAIがクリアしてくれないだろうかという個人的な課題持ってAI博覧会を訪れたのである。博覧会に向かった理由のひとつはそれであった。

 博覧会場はAI関連の企業がブースを構え、そこを訪れる人でごった返していた。今まさに最先端を行く現場に脚を踏み入れることになったが、いろいろ訊いているうちに仕事の効率化を図ったり作業の精度を向上するためにAIがSolution (解決策)へと導く水先案内人の役目を担っていることが分かってきた。

 ぼくの趣味の曲作りにおける課題をSolution に導くような会社は見つからなかったが、人工知能に詳しい担当者を紹介され、ぼくの課題にとことん付き合ってくれる幸運に恵まれることになった。彼はシェイクスピアの詩をネット上から探し出し、生成AIに「音楽を作って」という指示を出した。すると見事なまでに1分40秒の長い曲が生成されたのだ。

                     

 

 一時間半ほどで会場をあとにした。会場の隣接したところにはShake Shack(東京国際フォーラム店)があって、そこでAIのカタログを見返しながら、いつもとはひと味違うビーフバーガーの肉厚パテを味わった。この日、ぼく自身のなかでは老化しつつある知能が少しだけ更新されたような気がした。

 

 

 ぽかぽかとした陽気である。ここ数日、桜の開花が気にかかり、近隣の様子をネットで確かめてみると、目黒川沿いの桜並木もそろそろ見頃を迎えているという。ただ、肝心の天気は土曜が曇り、日曜は晴れとの予報であった。

 新宿御苑の桜は、かつて満開の折に訪れたことがある。苑内に足を踏み入れた途端、そこは夢見心地の別天地であった。二十九日の日曜は晴れの予報である。あの満開の桜絵巻に、再び出会えるかもしれない。そう思ってさらに調べてみると、日曜に限り予約チケットが必要とのことだった。

 善は急げ、である。はやる気持ちを抑えつつアソビューにアクセスし、予約を申し込んだ。一般五百円のところ、シニア(六十五歳以上)は半額の二百五十円。手続きを終え、日曜を待った。この日、土曜の曇天とは打って変わって、穏やかな春の日差しである。少し歩くだけで、うっすら汗ばむほどだった。

 新宿では京王百貨店に立ち寄り、昼の弁当を求めた。花見に出かけるときの、いわば定番である。スマートフォンで開花情報を確かめると、「ソメイヨシノはまだつぼみも見えるが、咲き進み、もうひと息で見頃」とある。今日こそは、あの別天地の風景が広がっているに違いないと、期待はふくらむばかりである。

 正午前に苑内に入った。たしかに満開の木もあるが、桜並木全体としては三分、五分、七分と、まだらな咲き具合である。それでも人々は、八分咲きの桜の下に思い思いの場所を見つけ、シートを広げて春の宴に興じている。

 しばらくは花よりも、行き交う人々のほうに目を奪われた。苑内は国際色豊かで、さながら世界の縮図のようである。やがて正午を回り、ようやく我に返って弁当のふたを取る。現れたのは、寄せ木細工のような幕の内弁当であった。

 


 深川のあさりめしに江戸前のたれをまとった煮穴子。和牛のすき煮。えびと舞茸の天ぷら。蟹つみれに鶏団子。きんぴら、ふき、南瓜の煮物。厚焼き卵には、クコの実が彩りを添えている。

「東京幕の内」の名は伊達ではない。江戸にゆかりの食材と料理を一折に詰め合わせた、小粋な感じの弁当であった。