来月の「山の日」には、恒例のファミリーコンサートがあります。カフェを貸し切り、音楽愛好家の仲間と先生方が集って、夏のひとときを存分に楽しもうという催しです。
とはいえ、会場はぼくが勤める郊外の住宅街の一角にある静かなカフェ。そのため、金管楽器や大音響を放つエレキギターなどの持ち込みは禁止しています。
音量の大きな楽器といっても、せいぜいピアノやエレアコが主流。エレアコはアンプにつないで音を出すものの、カントリーやフォーク系の柔らかな音色が中心で、近所迷惑になるほどではありません。店内の壁には防音材が使われており、遮音性もそれなりに確保されています。
昨年は十数人が集まりました。和やかな雰囲気のコンサートでした。今年も皆、張り切っているに違いありません。開催日が近づくにつれ、みなそれぞれ練習に余念がなく、課題曲もぼちぼち届き始めています。時間の都合から一人一、二曲を基本としていますが、中には三曲をエントリーしてくる人もいます。
それはそれで構いません。人前で思い切り自己表現をしたいという気持ちは、誰もが少なからず持っているものです。歌声に自信のある人は、自分の声を披露したい。歌は苦手でも演奏に自信のある人は、その腕前を聴いてもらいたい。そんな衝動は、なかなか抑えられるものではありません。
ぼくもまた、七十を過ぎてから始めたピアノの練習の成果を披露したいという思いで励んでいます。まだ先と思っていた開催日は、来月に迫ってきました。本格的にエンジンがかかり始めたのは今月初旬のことです。それまでなかなかピアノの前に座る気になれなかったのが、ようやく気持ちも高揚してきました。
もっとも、開催には一つ気がかりなことがあります。
昨年のファミリーコンサートが終わった九月、ぼくが所属する音楽スクールで弾き語りの発表会があって、気晴らしを兼ねて同僚と聴きに行ったときのことです。
演奏者は七、八人ほどだったでしょうか。最後に登場した若い男性が尾崎豊の「I LOVE YOU」などを弾き語りで披露しました。演奏を終えた彼が、たまたまぼくの隣の空席に腰を下ろしたのを機に少し言葉を交わしました。
「お上手ですね」
お世辞ではありません。自然と口をついて出た言葉でした。ギターの演奏は、ぼくなど足元にも及ばないほど見事でした。
その横顔を眺めながら、ふと不思議な感慨が胸をよぎりました。
(彼は、どうやってこの会場までやって来られたのだろう)
彼は目が見えなかったのです。
そのことが、かえって彼の技巧を研ぎ澄まし、音楽の本質にまで到達させているのではないか。そんなことを考えながら、ぼくは盲目のピアニスト、辻井伸行さんのことを思い浮かべました。
その出会いが縁となり、今年のファミリーコンサートに彼を招待したいと思うようになったのです。担当の先生にも相談し、実現に向けて準備を始めました。
彼の住む川崎から会場までタクシーで来てもらう場合の所要時間と料金も調べてみますと一時間半から二時間、料金は片道二万円から二万五千円ほどでした。
「一応、彼には話してみますけど、往復となれば五万円は覚悟しなければなりませんね」
先生はあきれたような表情でそう言いました。
「ぼくも、この先そう長く生きられるわけではありませんからね。生きているうちに、あれほど素晴らしい生の弾き語りをもう一度聴きたい。それだけなんです。だけど、五万円はちょっといたいですね。次のレッスンまでに返事をします」
その場ではひとまず保留の形にしたものの、彼を招きたいという気持ちはますます強くなっていきました。
そこで早速、小田急線沿線に住む音楽仲間のOさんに相談を持ちかけました。
「川崎から登戸まではタクシーで来てもらい、そこからOさんの車で会場まで送っていただけませんか。もちろんお礼はします」
そう頼むと、Oさんは笑いながら首を振ります。
「お礼なんていりませんよ。登戸なら途中みたいなものですから。ついでに迎えに行きます」
ありがたい申し出でした。
あとは、彼、盲目の弾き語りストからの返事を待つばかりです。
夏の日の小さなコンサートに、新しい出会いが加わることでどんな色の風景に変容するのか、楽しみがもうひとつ増えたという感じです。
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昨年度から今春にかけて、消費税をめぐる議論が白熱した。YouTubeでも「レジが原因で消費税をゼロにできない!?」という動画が再生回数300万回を超え、国民の関心の高さをうかがわせた。
議論が広がるきっかけの一つとなったのが、当時の首相・石破氏の「(レジ)システムを変えるだけでも一年はかかる」という発言である。消費税ゼロに慎重な姿勢を示したことで、賛否双方を巻き込み、この問題は一気に拡散したのだ。
これに対し、作家で実業家の竹田恒泰氏は、「うちのシステムエンジニアたちに聞いたら、そんなもの三分でできると言っていました」と反論。
「そんなに簡単なものなのか」と思いながら視聴者のコメントを眺めてみると、
・「税率を上げるときはすぐできたのに、下げるとなるとなぜ一年もかかるのか」
・「結局、消費税を下げたくないだけではないか」
・「財務省にも政府にも、その気がないとしか思えない」
など、疑問や怒りを込めた声が数多く寄せられていた。
では、実際のところはどうなのだろう。
そもそも消費税は、年金、介護、医療、子ども・子育て支援など、社会保障の財源として位置づけられている。減税は家計の負担を軽くしてくれる一方で、社会保障財源が減ることへの不安もある。経済全体にはどのような影響を及ぼすのか。その実態は、多くの国民にとって分かりにくいままである。
昨年(2025年度)の国の消費税収は24兆9000億円、約25兆円だった。一方、国内総生産(GDP)は約670兆円である。では、この25兆円の消費税をゼロにした場合、日本経済はどうなるのだろうか。GDPは減るのか、それとも増えるのか。
この点については、「減税乗数」という考え方がある。減税によって増えた可処分所得が消費を刺激し、その効果が経済全体に何倍にも波及するという考えである。
GDPが670兆円、減税乗数を控えめに「2」とすると、25兆円の減税は(×2)の約50兆円の経済効果を生み、GDPは720兆円になる計算である。
さらに、GDPの増加に応じて税収も増えるという考え方では、「税収弾性値」が用いられる。これはGDPが1%増えたとき、税収が何%増えるかを示す指標である。
この考え方に基づけば、減税によって経済成長が促され、その結果として税収の落ち込みをある程度カバーできる。あるいは場合によっては税収全体が増える可能性もある、という試算が成り立つ。
では、なぜ政府は減税に慎重なのだろうか。
減税を主張する論者の中には、その理由は政府が採用している「減税乗数」や「税収弾性値」の設定が低すぎることにある、と指摘する人もいる。
例えば、減税乗数については、海外では2~3程度を想定する研究もある一方、日本の政策試算では0.2程度という低い数値が用いられている。約十分の一である。
また、税収弾性値についても、GDPが成長しても税収はそれほど伸びないという前提で計算されているため、減税効果が過小評価されているという見方である。
GDPが1%増えたときの税収増加の割合を示す税収弾性値は「1.1」程度に設定されているので、GDPが1%成長しても税収は1%しか増えない、と言うのだ。
国の成長を促すと見込まれる減税を避け、増税に愛着を抱く財務省がやり玉に挙がるのは、どうやらこの計算の仕方に固執するからではないかと、どんよりとした梅雨の空を見上げて、ぼんやりと思うのである。
今日は仲夏、夏至である。
いつ頃からか、おそらく季節でいうと夏の時候であったろう、コーヒーゼリーというコーヒーのアロマ香るゼリーを好むようになった。コーヒーゼリーはその名の通り本質はゼリーである。ところがコーヒーという液体を混入すると、実態としては固形物で普段愛飲しているようなコーヒーではなくなる。
いや、コーヒーではあるが、飲料のコーヒーとは別物になるから不可思議である。前述したように固形物であるからには砂糖を混ぜた途端に菓子のジャンルにならないだろうか。改めて広辞苑で「菓子」についての定義を調べてみると、常食のほかに食する嗜好品、とあった。
菓子の「菓」は元来「くだもの」という意味があり、昔は果実のことを菓子と言っていたそうだ。それが、今では米や小麦の粉、餅などに砂糖や餡などを加えて成形したものを菓子と呼ぶようになった。それにともなって元来の果物を水菓子と呼び、現に流通する「お菓子」とは区別されている。
そもそもゼリーが何で出来ているかというと、その原料は2種類あって植物性のものでは果実などに含まれるペクチン、動物の皮や骨などからできるゼラチンである。それらを煮出して抽出した煮汁をそのまま使ったり、粉状に加工して使い勝手を良くしたりしている。
たとえば、粉状のゼラチンを80度に熱した50ccのお湯で溶かし、そこへコーヒーの液体200ccほどを入れて粗熱を取り、冷蔵庫で冷やすとコーヒーゼリーができ上がるというわけである。スーパーで売られているカップのものはこれにホワイトクリームを流し入れて見栄えを良くし、味にまろやかさを出す工夫をしている。
コーヒーの代わりにオレンジジュースを加えればオレンジゼリーができあがる。費用もかからない反面、おなかの足しにもならないから常食のほかに食する菓子の部類に入るのであろう。
大百科全書ニッポニカには、「マーブルのように美しい変化に富んだ菓子ができる」とあるから「菓子」の類いなのであるが、ゼリーコンソメのように料理などにも使えたりするからゼリーを一概に菓子とは断定しないでおきたい。
ほくがコーヒーゼリーを好むようになったのは、第一にそのお得感。第二にアイスクリームが泰然と乗っかっているその存在感に圧倒されたからである。アイスの存在を認めれば嫌いになる理由なんか見当たらないし、コーヒーゼリーの舌ざわりとほろ苦い味わいは出会い系を連想させる。
それがソフトクリームなら、なおさらマッチング成立の極みだと断言するにやぶさかではない。両者の相性は実に見事で、まるで理想的な出会いを果たしたカップルといえよう。
「ことしの夏はコーヒーゼリーでもやってみるか」
いままで頭の片隅にすらなかった新メニューの提案がオーナーの口から飛び出した瞬間、ぼくは思わずその顔を見つめてしまった。
昨年は、かき氷のことばかり考えていた。試作品を作っては「これじゃ店に出せないよ」とオーナーから駄目出しの連発である。削った氷の上からいちごシロップをまんべんなくかけ、売れ行きの皮算用を語りながら、冷たさにこめかみを押さえたものだった。
ところが、食べ進むうちに「なんか変だ」という感覚が拭えない。その「なんか」が何なのかを考えなければならなかった。
最初のひと口はいい。いちご風味のシロップをまとった氷をスプーンですくい、口へ運ぶと、甘酸っぱい世界に誘われて陶然となる。しかし、それ以上食べ進めると風味は薄れ、甘味までもが消えていく。カップの底に近づくころには、雪解けのシャーベット感ばかりが残るのである。
もともと果汁ではなく、紫イモや香料で風味を出しているシロップだからだろうか。
「だめだよ、これじゃ」
オーナーは途中でスプーンをトレイの上に置き、片腕をテーブルについたまま顎を手のひらに乗せて言った。
「なんで他の店にはできて、うちにはできないんだ」
「オーナーの言うとおりやりましたよ。シロップは井村屋のものを使いました。氷だっておいしい水を凍らせて削ったんですから」
「だったら氷いちごになるはずじゃないか」
「でも、なんか違いますよね」
「違うどころじゃない。不合格。不採用。今年はあきらめよう」
不採用通知を突きつけられたあとも、ぼくは厨房で思いつくまま試作品作りを繰り返した。だが結局、満足のいくものはできず、商品化は断念した。そのことを昨日のことのように覚えている。
夏といえば、ぼくの頭にはかき氷しか浮かばなかった。だからオーナーの口から突然「コーヒーゼリー」という言葉が出たとき、自分の発想の狭量さを恥じる感情が沸き上がった。
オーナーの提案は、ぼくを合羽橋の道具街へ走らせた。
ガラス容器を扱う店は意外なほど早く見つかった。大小さまざまな容器が棚いっぱいに並んでいる。コーヒーゼリー用のものが欲しいと告げると、店員は広口で脚付きの容器が並ぶ棚へ案内してくれた。
曲線の美しい六個セットのガラス容器に大枚をはたき、店を出る。日もだいぶ傾いていた。
支道を歩いていると、一軒の甘味処の前を通りかかった。ちょうど喫茶店でひと休みしようと思っていたところだった。店先のサンプルケースに、ソフトクリームを乗せたあんみつが鎮座している。
足を止めて見入っているうちに、右手は自然と店の扉の取っ手に伸びていた。のれんをくぐって店の中へ足を踏み入れた。
店内はこぢんまりとしている。客は二人だけ。静かで休憩には申し分ない。席につくと、注文前にもかかわらず緑茶とおしぼりが運ばれてきた。
トイレを借りて戻り、腰を下ろしたとき、店に入った理由がもう一つあったことに気づいた。小用を我慢していたのである。
元来ぼくは甘味への探究心に余念がない。近頃は糖尿病に逆らうように甘いものを求めてしまう。クリームあんみつを食べながら、アイスクリームを乗せたコーヒーゼリーのたたずまいを思い描いてみた。
しかし、コーヒーゼリーでは、この箱庭のように美しく盛りつけられたあんみつの風景にはかなわない気がした。同時に香り高い緑茶でも添えられたら申し分ないだろうと思った。
餡は赤福餅を思わせる漉し餡だった。漉し餡も悪くはない。そう思いながらスプーンですくう。もっとも、ぼくとしては粒餡ならなお結構なのである。
帰宅して夕食前の習慣としている血糖値を測定すると、191まで跳ね上がっていた。
女性たちがよく口にする「罪悪感」という言葉の意味が、心底わかったような気がした。
“In the early afternoon when lazy clouds float in the sky,
I will surely go and see a sunflower.”
そんな書き出しで始まる詩を書いたのは、もうかなり昔のことになります。籬(まがき)の向こうに咲く向日葵を憧れの人になぞらえて詠んだもので、まさに青春のただ中、ときめきの季節と重なっているようです。
音楽を愛し、日を空けずにギターの弾き語りを披露し合っていた青春時代。歌好きが集まれば、歌いあっては青春を謳歌するしかない。その様子は、冒険好きの子供たちが顔を合わせれば日暮れまで夢中になって遊びほうけるのと、どこか似ています。
“Sunflower”と名付けたこの詩は、そんな青春の熱気の中から、ある日ふいに湧き上がってきた叙情的な詩です。もともと韻を踏むように作詩したわけではなく、楽曲のために書いたものでもない。あえていうなら憧れという心情を、冷静と情熱を抱えながら綴った詩といえるでしょうか。ほどなくして英詩にも訳したのですが、その時点では、とても楽曲になるような詩だとは思ってはいませんでした。
あれから40年。いや、正確に言うと48年の歳月が流れ、世の中が急速に何かに向かっている感じがしている今日この頃。ITの世界だ、AIの時代だと世間がかまびすしい中で、ふと周りを見回すとあらゆる物が物理的に進化を遂げている。言葉のほうもゆっくりと時代の空気を読み取りながら新しい語彙を産生しています。
あの青春の日に書いた詩(プロンプト)を、いま猛烈な勢いで進化し続ける人工頭脳(AI)に投げ込んだら、いったい何が生まれるのだろう。そんな48年後のAIとの邂逅を機に、lyricをそのままの形で託してみました。それが今回の楽曲。絶対に歌にはならない、と半ば放念していた詩を、しかし人工頭脳は事もなげに生成してしまったのですから驚きです。
思えば、「楽器の王様」といわれるピアノが登場した時代もそうでした。チェンバロやハープシコードに親しんでいた人々にとって、新しく出現したピアノは「音の大きすぎる騒々しい楽器」に映ったといいます。
AIによって生成された音楽も、芸術に対する冒涜ととらえられてしまうのでしょうか。しかしながら、ひとつの試みとして、この神にも似た力を持ち始めたAIの可能性に託したのは、もう一つの世界を垣間見てみたいという好奇心も手伝っていたに相違ありません。


