まえがき

 ついったらーには、what is VTuber? や how VTubers exist? を語る人はそれなりにいます。私はそれらがどういった意見なのかだけでなく、どういった背景を以て語っているのかを見るのも好きです。例えばどのライバーを応援してるのか、ディープなリスナーなのか、ややVアンチ寄りなのか、V以外にどういった趣味を持ってるのかとか。


 我語るがゆえに我らあり

 ただ、どんな背景をもっていても誰も正解が分からないから、私を含め、根拠が十分になくてもあーだこーた語る人は少なくないし、主観もモリモリです。視聴経験の幅もあります。気持ち悪いことを言う人もいます。アンチもいます。見え透いた嘘をつく人もいます。でもそれでも良いんです。それこそ多種多様な意見のあり方を担保しています。


 学術は権威性を持つかもよ

 一方、Vを語る学術系の議論は、それ自体も大勢の中の一部に過ぎませんが、そも学術は結論を出すのが目的です。なので「学術的知識」と「論理」を武器に、持論の正当性を証明します。ただ、その正統性に嫌疑をかけられない人々にとって、その論は「権威」を持ち、正しいものだと理解されます。そしてそうした認識は再生産され、多種多様な意見のあり方を妨げる可能性もあるのです。

 例えば小保方氏の時がそうでした。彼女は結果的にガバガバ査読の元でドリーム細胞を産み出してしまったわけですが、リリース1週間は専門家を除いて誰も疑いもしなかったわけです。もし誰も指摘しなかったら、ひょっとするとなにがしかの栄誉は受けていたかもしれませんし、多くの信奉者が生まれていたかもしれない。そしてその状況が一度形作られてしまえば、反対意見や嫌疑を挟むことが難しくなってしまうはずです。

 Vについても同じです。例えば「Vは単にリアルとも虚構とも言えない存在」という説が広まって有力視されれば、虚構あるいはリアルとしてのVが好きな人々は、意見表明を抑圧される可能性があります。地動説が有力な現代で天動説を語るようなものです。

 Homo Loquens

 ただし意見の正統性/事実性と多様さは切り離して考える必要があると思っています。当然、意見は可能な限り論理的手続きや用語が正しく用いられ、事実をベースに語られるのがベストです。しかしこの点を過度に重視しすぎると、おそらく学者か暇人以外、誰も意見を表明しなくなるでしょう。そうした「正しさ」だけで構築されたコミュニティは、重大な過ちが起こるまでは誰も問題性を指摘できなくなります。
 だからこそ「論理的不整合」、「知識不足」、そして「非権威」を許容し、誰でも物語れる方が良いのです。すなわち多少のおかしな論理でも、前提知識や先行例をよく知らなくても、いかなる人であってもVを語って良いのです。そしてそうした論は学術的に気取っていない限り、前提知識がなくとも基本的に嫌疑や反駁が可能です。そのため1つの決定論は生まれないはずです。

 嘘と攻撃はNG

 もっとも、明らかに虚偽の事実の掲示、人格攻撃や誹謗中傷を目的とした意見表明は控えましょう。それらは倫理的にも望ましくないですし、法的リスクも抱えています。

 ガバガバでも油断するな

 そして、一応学術にも前述の「論理的不整合」、「知識不足」、そして「非権威」は適用されます。極端ですが、明らかなガバガバ論文が存在すること自体は問題ありません。それは主に執筆者の実力不足とガバガバ査読のせいです。
 ただしガバガバ論文であっても、何度も繰り返すようですが、学術的知識を持ち合わせていない市井にとっては「権威」であり「正しい」ものとして映ります。よって仮にそれが世に出回ってしまえば、人々はそれを正統として疑わず、反対意見を抑圧する可能性があります。

 あっ、もちろん学術も大事ですよ

 ただし逆に、市井が学術を抑圧することがあってはならないでしょう。学術は人類の叡知の蓄積であり、社会のシステムや技術の基礎研究であり、市井の持てぬ観点を以て市井の問題と課題を提示するものです。主体こそ曖昧ではあるものの、市井もまた「権威」を持ちます。すなわち市井の感覚にそぐわない研究はすぐに市井によって批判され、研究者が萎縮する可能性があります。

 どう認めるか

 私の論理では、多様な意見の中に学者さんの学術研究も認めないといけません。しかし学術研究は結論を出すという目的があり、その結論は徹底的な論理武装と凄まじい知識量で武装され、我々一般人は粗探しぐらいしかできないわけです。粗探しは嫌われるか、「粗探しより本質を見ようよ」と言われて渋々下がるしかないわけです。

 

 なので皮肉なものですが、1つでもマトモに反駁できる要素がないと、それは多数ある中の1つの論ではなく、唯一の「神」に近いものになります。というのも学者さん同士の議論ならば、お互いに反駁し合うことができるので、1つの説が神のごとく有力であり続けることはない。しかし学者と一般人の議論ならば、学者は一般人をタコ殴りにでき、いわば「わからせ」ができるわけです。あるいら一般人がガミガミ言ってきても、学者は「へー的はずれだけどね」の一言で終わります。

 そして本来はどちらかが歩み寄って議論に求められる知識レベルを変えたり、双方がより多様な意見を志向せねばならないのですが、残念ながらそういった試みは少ないように見えます。本当に残念。

 つまり…(面倒な人向け)

・Vに学術は持ち込んでもいい。ただしそれ自体が権威になって多様な意見を阻害するかも

・基本的にみんな好きに語って良い。明らかな嘘はつかずに、かつ人をなるべく傷つけずにドンドン語っていこう

・多様な意見の中に学術研究も含まれる。しかし市井はその正統性を判断できないので、結果的には「多数ある中の1論」にはならず、構造的に権威化するようになっている

 おわりに

 でもそもそも我々の大半は学術とか興味はないし、自分の意見が大勢と違ってもついったらーでならズカズカ言えるし、こんなこと気にしてる暇があったら配信楽しんだ方がいいよね(しみじみ)。

-Anna Terking-