前提:社会問題にする事の難しさ

 VTuberは社会問題にならないわけではない、と思います。その上位カテゴリの「ライブ配信業」は既に消費庁から問題視されてきた経緯はありますし、本筋から若干逸脱はしますが某社は下請け問題を公正取引委員会より勧告されています。

 ただしそれらは国家的機関の発したものであり、いわば官製の社会問題です。

 実際の社会問題がどう発生し成立するのかを考えたとき、そもそも何らかの被害があったからそれが社会問題とみなされるわけではないという事です。市民、活動団体、報道機関、行政的主体により周知・申し立てがあってこそです。そしてより重要な事は、その過程において、当然被害者・被害の規模・原因の特定が必要不可欠だからです。

 言い換えれば、「被害者・被害の規模・原因」の特定が難しくそれに伴い申し立ても困難であるから、それは社会問題とはなりえないともいえるわけです。いくつか例を検討してみましょう。

 

 VTuber界における1つの主要な問題に、投げ銭問題があります。いわゆるスパチャによる浪費、ないし未成年の課金利用の問題です。この問題は既に先の消費者庁や各種報道機関においても周知され、また各VTuber運営企業においても未成年者のガイドラインは整備されていたりします。これらは明確に問題として認知されている一方、未だ社会問題に上がっていないと見ます。それは"VTuber"の固有の問題ではなく、「配信界隈」というより上位のカテゴリの問題であったり、「浪費者」や「未成年」といった個人的な問題へと変換(溶解)するからです。またそれらはあるVTuberの活動において発生したのだとしても、本人からすれば応援、Vtuberからすれば支援、Vtuber企業やプラットフォームからすれば娯楽や機能の提供、のように責任が分散し結果的に個人的責任へと転化されがちだからです。責任の分散や個人問題化は社会問題として昇華する事を妨げる結果となるわけです。

 

 

 社会問題化できない構造

 上記で既に述べた通り、現状のVTuber界隈の問題というものはVTuber固有の問題として見なされにくく、またこれを集団として提起する動きは今のところありません。そしてそういった動きがないという事は、それを社会問題化する必要がないというVTuber界隈や世間一般の認識という事になるのでしょうか。

 結論、ほぼそういう事になるのだろうと思います。確かに日々各SNSではVTuberに関する問題提起というものが(アンチの投稿含め)なされています。それらが一定の支持を得る事もあり半ば社会問題化されているように見えますが、しかし実は単なる海の上の"あぶく"に過ぎず、その"あぶく"に共通的・構造的意味を見出す事が出来る人が皆無なのです。言い換えれば、VTuberの"問題"について本格的に検討できる人の不足と、SNSなどに多くみられる「問題提起」はあまりに表面的・単発的すぎて構造について全く検討できる状況になく、それに能う人材もいないという事です。能う人材はほとんどが「体制側」や「考察側」に行ってしまいました。

 

 また社会問題化するという事は、問題を公にすることです。ここで1つのジャブとなり得るのは、昨今のVTuber運営企業を始めとする開示請求手続です。開示請求自体はひと昔と比べて裁判所の判断は緩和されプロセスも速やかになりました。それでも未だに開示請求自体がプロバイダのログ保管に間に合わないとか費用の問題もありますが、今ではVTuberの活動において1つの抑止として機能し続けています。この辺りが難しいところで、大体のところは「何が誹謗中傷/開示請求の要件を満たすか」をある程度公開するものの、まだ曖昧なままではあるのです。しかしこの「曖昧さ」がアンチ・リスナー双方からの集団的問題提起をある程度抑制するという事を指摘したいと思います。

 というのも要件が曖昧であるという事は、アンチにとってはいつ自分が開示請求の対象となるか分からないという恐怖心を与えます。またアンチはいわゆる「評論風アンチ」「パロディ」「なりすまし」という事を行うわけですが、こうした行為もまたある程度抑止できます。またこうした危機感により、アンチは徐々に5ch、reddit、好き嫌い等のSNSやDiscord、LINE、telegram等のクローズドなPFに潜むようになります。

 リスナーにとっては、この「曖昧さ」は全く無関係に見えます。というのもリスナーはそういったアンチ行為はしない、という見方があるからです。しかし実際、それは目に見える範囲においてであって、5ch、reddit、好き嫌い、まとめ、その他クローズドなPF上ではリスナーとみられる「不満」や「問題提起」は相当見られます。目に見える配信上やメジャーなSNS上では開示の危険があり、地下に潜らなければならないというわけです。全リスナーのうちでもかなり少数にであるにしても、「曖昧さ」による抑止の結果と言えるでしょう。

 上記は一見ごく普通の見方に見えます。しかし言い換えればアンチにとっては「積極的にアンチする事への抑止」、リスナーにとっては「表立った意見表明の抑止」として機能します。昨今のカスハラ対策などからも分かるように、運営フォームですら「不満のはけ口」となっている可能性は高い。だからリスナーの意見が集団化しないように、各異見を「孤軍化」にするとともにそれを「個人的問題」として処理可能となります。リスナーによる「応援広告」などの組織的な試みはよくあるのに、なぜ「署名」などの集団的問題提起がないのかを考えた時、「VTuberにおける問題は個別・孤軍化するように構造作られている」という点を見逃す事が出来ません。これはもっとVTuber研究において意識されるべき事案ではないでしょうか。

 

 ※開示請求に至る要件の「曖昧さ」の効果を補足・整理します。

 ■アンチ側

 ①アンチは何が開示請求に繋がるか分からないため、行動自体を控えるようになる。

 ②開示請求に繋がらないように手口を考えるアンチは、そのやり口を慎重にせざるを得なくなる

 ③アンチは公開SNS上から減り地下化するため、それらは大きな連帯を持てずに孤軍化し、個別の通報によって処理される

 ④公開SNS上に残ったアンチは分かりやすい対象として、容易に処理可能(これは実績作りにもつながります)

 ⇒アンチはクローズドなPFでのみ組織化するため、極めて規模が限定的

 

 ■リスナー側

 ①リスナーは感情に任せた迷惑行為やアンチ行為を控えるようになる。あるいは再訓練される。

 ②迷惑行為やアンチ行為、そして「不満」を抑えきれないリスナーは公開SNSから地下化、孤軍化する

 ③運営フォームなども「不満のはけ口」として機能し、問題は集団から個別のものとして処理される。

 ⇒集団的提起は基本的に組織化まで至らない

 

 

 ポジティブさのみを取り上げる事について

 

 リスナーというものはVTuberをエンタメとして消費するアクターですが、それを内部的に批評する事については特に制限はない認識です。誰もがVTuberについて賛同、意見、批評、アンチ等全て行う事ができます。。それは言論の自由という以前に、それに関して誰も制限をする事が物理的にできないという現実によるものです。だからアンチ行為であってもそれ自体が行われる事に問題はありません。また現在VTuber業界に起こっている問題をリスナーが強い言葉で非難・批評する事もまた問題ありません。

 ただしそれを行った結果生じた損害について、申し立てがあればそれを償ったり応じる必要は可能性としてあります。これは倫理的な問題ではなく法的・社会契約的な話です。だからその意味においてアンチ行為が許されるべきではない、と論じているわけではありません。

 倫理的問題においてはじめて、人倫すなわち社会において積みあがった人としての規範において、他者への悪意ある行為や言葉は行うべきではないという事になります。ところでそれは「制約」なので、「〇〇をすべき」ではなく「〇〇をすべきではない」という制約です。この世は制約社会であり、制約の上に初めて「〇〇をすべき」や「〇〇をしても良い」という規範が現れます。規範も制約の一部ではありますが、同時に強制力はないが推奨されるべき事項も含まれる。スーパーチャットはすべきなのではなくしても良い行動であり、グッズ購入・メンバーシップ・ライブ視聴もそれに含まれます。

 ちなみにVTuberの視聴自体は、規範なのでしょうか。それは規範ではなく、裁量です。VTuber視聴は推奨されているわけではない。少なくとも社会という実体において、VTuberおよび配信というものは推奨されていない。だから個々人の裁量でしかないわけです。

 

 上記を踏まえ、VTuberを「ポジティブ」または「ネガティブ」に取り上げる事について少し語りたいと思います。ポジティブに取り上げる事の意義については、あえて多くを語る必要はないと思います。コンテンツが面白かった事についての表現、楽しい推し活の披露が主に該当するでしょう。それらは感情に紐づいたものであり、決して客観視出来ないものです。客観視出来ない事は悪い事ではありません。感情は主観からのみ豊かに表現できる以上、単なる制約でしかない。

 しかし私はここに安直に、「研究・考察」を加え入れたくはありません。というのも近年のVTuber研究は明らかにポジティブ寄りすぎるためです。理由は簡単です。それは研究・考察というよりも、「VTuber界隈で起こった事を頭の中で整理し、知的装飾を施した文章表現に過ぎない」からです。私も元アカデミック側なので各研究はある程度読めるのですが、まぁ書いてあることは大体は「VTuber界隈で何が起き/それはどのように構造化されているか」ではなく「自分の目にはVTuber界隈がどう見えているか」でしかないのです。また中途半端にアカデミックな手続きを意識した結果、何の結論も得られていないという事もまぁまぁあります。

 私は勇み足で一貫性・論理性を欠けと言っているわけではありません。それらはアカデミックでありたいならば不文律で必要な事項です。しかし問題は、知的装飾により一定の権威性を持った「研究・考察」が有益な結論(あえていえば構造)をもたらすどころか、むしろ「体制礼賛」を行っている事です。これは1奥歩譲ってそれは研究ではないとか、コンテンツの性質上そうしなければ売れないとか、資料協力などを受けられないとか、自分がVTuberリスナーであるためとか、そういった事情があったにしても、私にはそれは受け容れられませんでした。

 先に述べた通り、倫理的段階に至った時に初めて表現というものが問題となり、その抑止として先に述べた開示請求も役立つとしました。だからネガティブな内容というものは自然と、表立って出てこなくなる。それだけならまぁ良いかと思うわけです。なぜならそれは制約社会における制約なのだから。

 ところが今はVTuber礼賛というものが明らかに内部から溢れている。それ自体は異様だと思いません。問題はその中にあっても、VTuber界隈の構造を見出すとか、多少ネガティブでもあえて取り上げて批評する者が、ほぼ皆無である事。VTuberリスナー、研究者、考察者いずれにおいてもです。

 

 これも一種の構造です。エンタメにおいてネガティブな要素は薄められるか、先に述べた通り「孤軍化」させられるかのどちらかです。前者は危機管理として、後者は常時において現れます。つまり個々の識者は依然「孤軍化」させられていて、多様な意見の発出が妨げられている構造だからです。一方、これは事実と反するように見えます。むしろ個々の識者が集団化する事なくバラバラの方が、多様な意見が増えるのではと思うかもしれない。しかし私は先に述べた通り、それが"個人の意見"として処理される事を問題視しました。個人の意見として世間的にも処理される事で、それは致命的な問題ではなくなる。だからネガティブな意見というものは孤軍化され、大体腫物として扱われ、ミュートされ、無力となる。様々なニュースサイトで「VTuber識者たち」が誇大表現的に「対談」している姿を見てみてください。それらはむしろ「集団化」されて処理されている。集団化する事でそれは有力となり、オンエアとなります。その中で、VTuber礼賛が世界に向けて行われている現状というわけです。

 

 

 最後に

 とはいえ上記に書いた事は正直、構造というものを1ミリも抉りだせたとは思っていません。むしろこれも問題提起の一部なのです。今のVTuber界隈における批評の在り方が明らかに変質しつつあるという意識ではあるのですが、いかんせん具体的裏付けもなく散文で書いているため、かなり説得力に乏しいものでしょう。

 しかし私はVTuberリスナーとして、自由な言論は十分に許容されるべきで、開示請求というものは最終手段として頻発されるものではないと思っています。開示請求というものはVTuber達だけでなくリスナーの心理的負担も軽減するための手段でもある。必要だとは思っています。しかし開示請求の連発により、「何が問題で何が問題ではないか」の境界が日に日に狭くなっている。それだけでなく「問題だとは思っているが、問題として集団的に提起できない」という、実質的に消費者集団と企業の関係を構築出来ていない現状があります。

 VTuber界隈、またはVTuber市場というものは依然ニッチでありながらも、もはや一定の規模を持ってしまっている。他の業界の慣行を見たときに、「なぜVTuber界隈ではこうしたことがないのか/できないのか」と思う事は、まだまだたくさんあります。しかしVTuber界隈というものは一般化を推進し、そうした課題を乗り越え、できる事を増やしつつ業界水準の創設を目指したのではなかったでしょうか。VTuber界隈の課題を運営企業だけでなくリスナーも考え、問題提起する時期が来ていると思います。