まず、容疑者という概念はもともとこの世界にあったわけではありません。この言葉は、支配者が自分たちのものである国を乱されないことと、反乱を起こさせないことを目的に作られた法が整備されたのちに出現したものです。この呼称は、あくまで法治国家内での慣習なのです。法の下では人間は、罪人と非罪人の2種類しかいないことになります。
重い罰を科せれる法の作成を、支配下に置かれていた民衆が自らから望んだはずがありません。ここが重要なポイントです。支配者が自分たちにとって都合のいいように勝手に考えて勝手につくり上げた。
もとをたどれば、罪人を許せないという感情は、実はこの支配者による支配者のための法が起源であり正体なのです。乗せられている。
この暗い呼称を人につけることは、その人を社会から抹殺するだけでなく、人を容疑者という人間ではない別の生物、いわば悪魔に近い存在とみなすことを意味します。そしてこの罪人排除の思想は非常に危険で、このように人間と区別された人に対しては何をやっても構わないと考える者が多数出てきます。それが何かはここに書くまでもでもありません。
国連は世界人権宣言なるものを掲げて世界の人々に安心を与えているつもりですが、そこに書かれていることはどれも笑いたくなるほど当たり前のことばかりで、このような本当の意味での人権に関することには一切言及されておらず、どの国の人々も支配者の管理下の下人権が蹂躙されているのが実情なのです。
残念のことに、どの国の政治家も真面目を装っているだけの偽善者ということです。支配の上に成り立つ平和、幸福など絶対にあり得ないのです。
鋭利な刃物ほどの鋭さを持つこの支配者が考え出した差別用語がもたらす傷は、相手の心を通り越して深く魂にまで及びます。
事あるごとにこの心無い政府公認の差別用語を多用するメディアは、中立を基本理念としているといっても、実は政治寄りなのです。
人間には様々な側面があって総合的に判断されるべきなのに、支配者は小さな子供が好き嫌いをするように自分が気に入らない面だけを見て社会から排除する。このような極端に視野が狭い者たちが国家という巨大な民の集合体の舵取りを行うといずれ必ず転覆します。
法がこの世界に現れた古代以降の人類の歴史は、支配者が決めつけたルールの失敗とその修正の繰り返し。そして、次の人類の課題は、“罪人”差別と行動履歴による偏見。「やってはいけない」(だからといってやっていいというわけではない)という常識として社会に浸透した思い込みにとらわれているうちは克服することはできません。
目指すのは、世間を騒がせてしまった人を異物とみなして排除するのではなく、一人の同じ人間と認めて共存する寛容な社会。新しい時代における、神の視点での多様性とは、人種や性別といった目に見えるものではなく、その人に内在するもの。
テクノロジーを進歩させて悪化した環境を改善しろ、化石燃料に代わる新たなエネルギー源をつくり出せといった無理難題を押し付けているわけではありません。ここで言っているのは意識の改革、すなわち魂の進化。
幸いにもこの世界には世界的宗教の有名な言葉があります。決して不可能なことではありません。経済より人権なのです。