不登校と躁うつ病。 | アンドウミホ*blog~音楽&躁うつな日々~

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~Bipolar Disorders&Music Diary~

毎日の出来事や音楽活動、闘病日記を書いています。

今日は不登校時代に大変お世話になった恩師T先生の紹介で知り合った、市のフリースクールの後輩にあたるnさんと初めて会ってきました。

(長くて暗い話しも多々あるので苦手な方はスルーしてください)

blogに不登校のテーマを追加しようと思ったら既に1件あったという(笑)

nさんは地元大学の大学院生で、修士論文を書くにあたって不登校経験者の体験談や当時の思い、そしてその後のことを聞きたいということでした。

実は2年前にも大学4年の時に卒論に協力を…と連絡もらってたんですが、ちょうど私の鬱期と協力要員数に達したことが重なってお会いすることのないままだったんです。

下の名前が漢字一文字違いで同じということでお互い勝手に親近感を感じての初対面となりました。

昨夜は何を話せばいいんだろう?とか、どんなこと聞かれるのか不安で仕方なかったのが本音で。

実際会ってからも最初は緊張してる自分がいて、場所を行きつけのカフェにしてもらったのにいつもとは違う顔をしていたらしい(顔なじみの店員さん談)。


私の不登校は中学からでなく小3から始まっているのと、途中で鬱になったり躁うつ病を発病したり就職していなかったりと、他の方より長引くのでは?という心配もありました。

2回に分けての面談とのことだったので、話し始める前に小3からで長いことと、話す過程でどうしても精神疾患発病の話しを加えないと話しが成り立たないことを説明。

さすがに小学3年生で初めて学校へ行けなくなった頃の気持ちまでは思い出せなかったけれど…

19年前、約20年前の気持ちを鮮明に覚えてる人の方が少ないか。

あの頃も確か目に見えないいじめを受けていて、対人関係に関する恐怖心がとにかく大きかったんじゃないかなぁ。

友達も先生もまわりの大人もみんな信じられなくなって、その時通っていた県の教育センターの中にある適応指導教室Pの広場の担当の先生と小児科でカウンセリングをしてもらっていた主治医の先生が唯一の心のよりどころでした。

Pの広場には県内各地から小学生から高校生までいろんな人が集まっていて、私たちが一番年下で中高生のお兄ちゃん・お姉ちゃんたちに可愛がってもらっていた記憶を鮮明に覚えています。

学校に行けなくて苦しい思いや辛くて泣いたこともあったけど、別のところで自分の居場所をみつけて1年間だけだったけど楽しく過ごせていろんな経験ができたのは今となってはいい思い出です。

小4~中2の夏までは年間通して通学できる日と行けない日が半々ぐらいだったのが続き…

中2の秋の体育祭のクラス対抗リレーで骨盤骨折をしてしまい、退院後に母同伴という異例な状況で松葉杖で修学旅行に行くも仲のいい友達とは違うクラスで行動を共にできず。

この修学旅行から帰ってきて、私は不登校でななく自ら「学校へ行かないこと」を選びました。

有難かったことに、母も小3の不登校の時に親の会などでいろいろ勉強をしてくれていて、「そんなに苦しい思いするんやったら、学校行かんでいいよ」と言ってくれて。

私が中1の頃から保険のおばちゃんとして働き始めていた母が、中2の冬~通った市の適応指導教室Fルームを見つけてきてくれて、そこで出会ったのが恩師のT先生でした。

T先生やそこで知り合った他の学校の同級生や先輩・後輩の存在は本当に大きくて、未だに連絡を取り合っている人も結構います。

Fルームでも友人関係など人間関係には悩んだこともあったけれど、今思えばみんな思春期、ぶつかり合って当たり前だったんだよな~。

何かある度に定期的な面談でT先生には相談にのってもらっていました。

高校への進路相談も中3の担任よりもT先生に相談してたような…。

親や音楽の先生が薦めてくれたり選んだ学校ではなくて、自分の目で見て耳で聞いて実際に体験入学に行ってみてから選びたかった。

いろんな高校・学科・コースをみてまわって、選んだのが母校の私立高校の適応クラス。

高校選び終了~受験の頃に人生で初めてのうつ状態を経験して、母や先生の手に負えなくなり初の心療内科・精神科クリニックを受診。

初めて行ったクリニックではとにかく「死なないでね」としか言われず、先が見えなかったので母の当時の上司の同級生が院長をしてた病院へすぐ受診。

そこでは大量の薬が処方され、私はいったい何病なんだろう?という不安と人が怖くて病院以外の外出ができなかったのと、今思えば躁状態であろう状態を繰り返しはじめていました。

高校時代の同級生は3年間同じメンバーで同じクラスだったので、未だに年1回は必ずクラス会があって集まるほどの仲の良さ。

女子の大半が結婚してしまい取り残された感が半端ない今日この頃ですが…。

高2の途中でクリニックへの受診拒否をしてしばらく勝手に断薬。

症状も悪化し、当然のように高3の後半で未だかつて一番ひどかった鬱期に突入。

高校卒業も単位が足らず、人が怖くてみんなと同じ卒業式に出席できなかったけれど、後日学校側の配慮でひとり卒業式を開いてもらって、サプライズで同級生が会いに来てくれていました。

(中学の卒業式も体育館の上から見学して同じ日に校長室でひとり卒業式。)

高校卒業と同時にクリニックも転院して、新しい病院でのG主治医が決まっていた福岡への進学をドクターストップ。

しばらくはG先生を恨んで実家で過ごす日々が続きましたが、1年間で何度も躁と鬱を繰り返し当時主流だった治療薬のリーマス(リチウム)が全く効かず主治医泣かせの患者だったようです。

躁の時は福岡の専門学校の体験入学で知り合った先輩バンドについて沖縄にいったり、フリースペースでのバンド活動に参加したり。

鬱の時は家とクリニックの往復のみ。

そんな中でまた進路に悩む日々がやってきて、進学予定だった音楽学校と心理学を学ぶための大学を受験してみようかと先輩や高校時代の先生に相談にのってもらっていました。

当時「音楽療法士」という資格が国家資格になるかも?と言われてたこともあって、音大への進学も考えたことがあったけれど、結局学校や団体の認定資格にしかならないということで、どうせならやりたい音楽を勉強した方が楽しめるし頑張れるだろう!と思って。

憧れの先輩が卒業したこともあり、福岡の専門学校への進学を選びました。

今日の面談で高校や専門学校への進学した時の心境やキッカケを尋ねられてすぐに答えられなかったんだけど。

専門への進学はやっぱり体験入学で出会ったシンガーソングライターの先輩の存在がデカかったと思う。

あとはずっとクラシックで楽譜通りに演奏したり歌うことに楽しさを感じれなくなっていて、それをバント活動を通じて音楽を楽しむことを感じることができたから。

不純な動機かもしれないけど、先に書いた先輩の存在とアドバイスの方が%としては大きかったです。

専門学校入学後も、入学式の時が鬱期で寮に入寮できず一旦両親と大分の実家へ帰宅して這い上がるのを待つことに。

それからその年、19の夏ごろやっと這い上がってきてG主治医の紹介状を持って福岡へ。

その時に紹介状に封がされてなかったのといくつか病院に行けるようにと3通書いてくれていたので、1通あけてみると病名の欄に英語でBipolar Disorders Iと書かれていました。

寮の部屋でひとりインターネットに初めて繋がった日に調べて出てきた病名が躁うつ病1型。

出てくる症例がすべて自分に当てはまり、ようやく病名が知れた日になったのです。

専門学校に通い始めて数か月後、海外研修が決まっていて前主治医の診断書がないとロスとラスベガスへの海外研修に連れて行けない・・と担任から断言されてしまい、その場でG先生に電話で診断書を依頼し、何とか一緒に連れて行ってもらうことができました。

アメリカでも睡眠状態が悪くてハチャメチャで同級生に迷惑もかけたと思うけど、帰ってからの学校生活ではもっと同じコースの子や先輩・後輩に迷惑かけただろうな、と思います。

その時は目の前のことに必死で何も気づけなかったけど、今逢って話すことができたら心から謝りたい。

2年に進級と同時に寮を出て近くの1ルームマンションに引っ越すも、今思えばそれも躁状態からの衝動と行動でした。

せっかく念願の1人暮らしになれたのに、また鬱期がやってきて実家に帰る羽目になって、結局そのマンションには2年間のうち1年足らずしか住むことができなかった。

2年、21歳の12月忘れもしないクリスマスイブに観に行ったライブで、花の美の相方だったカナちゃんと運命的?な出会いをして、翌年の年明け早々に一緒に活動することが決まり、まずは病気のことを話すことからはじまったのを覚えています。

理解のあるおおらかなお姉さんで、2年と少し一緒に活動できたことは私の音楽人生の大部分を占めていた気がします。

22歳の2月、4年前に大分に泣く泣く帰って来てしばらくは福岡に通っていたけどそれも厳しくなったのと、カナちゃんも歌うことに疑問を感じはじめていたので活動休止することに。


大分に帰って来てであった現在の主治医H先生は今までにないタイプの先生で、私の意見やちょっとした言動や行動を見逃さない見かけとは違って(失礼)俊敏な方。

お薬1種類変更するのにも、私が納得がいくまで意見交換して話し合ってくれます。

時には私の方から、新しく出たあの薬飲んでみたいんですけど?と提案することも。

これも10年すぎようとしている闘病生活の中で培った薬や病状の知識や勘がそうさせてくれてるのだろうと思っています。

現在はドクターストップで就労は困難、特に躁状態の時の就労は禁止されており、もどかしい思いをすることも多いですが、そんな中大好きな音楽活動が少しでも再開できる「自分を認めて大切にすること」を大切な人たちから教わりました。

どこか自己否定してしまってる自分がいたことを大いに反省しています。

もっと自分の人生、自信を持って生きんとね!と言われてハッとしました。

長くなりましたが、最後まで読んでくれた方、本当にありがとうございます。

感想などありましたら、コメント・メッセージ・直接連絡などで聞かせてもらえると幸いです。

こんな私ですが、これからもよろしくお願いいたします!




最後に夕方急きょ再会できた後輩と行ったスタバのドライブスルーで、こだわりの抹茶ソイラテを頼んだ時に出てきたカップについていた伝票?

photo:01



それと、母の友人が私に…とわざわざ買ってきてくれた長崎ハウステンボスのお土産。

photo:02




みなさん…どうか私の食欲の秋に拍車をかけないでください!!

いただいたものは、有難くいただきます♡





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