プライムで『エクソシスト 信じる者』を観た。思った通り最高につまらなかった。公開当初からつまらなそうと思った私の嗅覚は正しかった。エレン・バースティンとリンダ・ブレアはただの客寄せパンダで、ひどい扱いだった。仕事断れよって思ったよ。
実際、つまらんだろうと思っても私もこの客寄せパンダの魅力に負けて観てしまった訳だが。
『エクソシスト』(1973年)の直接の続編とあるが、言うのは勝手だが、私は認めん。というか、『エクソシスト』の名を汚すような作品を撮るなと憤りさえ覚えたよ。
独特なアプローチをしたジョン・ブアマン監督の『エクソシスト2』や、原作者自らメガホンを取った『エクソシスト3』はともかく、それ以外のシリーズはお話にならん。
今回は製作会社がブラムハウスだしなー。ここってライトなホラーを作る分にはいいんだろうけど。
一応一作目のオマージュ的シーンが散見している。
例えば冒頭の争う犬とか、場面転換で急に大きな音が出るとか、父と子の微笑ましいおっかけっことか、ああ、本家を意識してるのねーという感じだけど、だから何って感じでもある。
チューブラベルズが流れるとちょっとテンションあがるけど、まあ、それもだから何って感じ。
以下ネタバレでディスっていきたいと思う。
ネタバレ
今回取り憑かれるのは黒人少女と白人少女。パズズはどんだけ少女が好きやねん。男の子に取り憑いたってええんやで。『エクソシスト』の元になった事件だって取り憑かれたのは男の子だしねー。そういうところだけ律儀に一作目の設定を踏襲するのがまたつまらん。さすがにひとりじゃ芸がないから今回はふたりにしましたって、そんなマイナーチェンジされてもね。やっぱり『エクソシスト3』で取り憑かれる人間を少女に限定せず、話をまったく違う方向に飛躍させたピーター・ブラッティは偉大だな。
まず、黒人メインってところが昨今の風潮なのよね。取り憑かれるのも女優とかセレブじゃなくて庶民の子。
ハイチ地震の描写はなかなか迫力あったけど、ここで妊娠した女性がたまたま知り合った女性になんか祝福の儀式をやってもらうエピソードがあって、それが何か伏線になるのかと思ったらそういう訳でもない。
リーガンのウィージャ盤のように少女たちが降霊術みたいなことをやったきっかけで悪魔が取り憑くのだが、行方不明になってから見つかるまでの展開がだらだらと長い。
悪魔に取り憑かれたらまた汚い言葉で暴言を吐くという、今となってはそれほど衝撃もない現象。パズズもワンパターンだな。
今回はカトリックに悪魔払いを断られたので、無理矢理たまたまそこに集まったメンバーで強行するところが怖い。もはやカルトに取り憑かれた危ない集団ヒステリーにしかみえなくて。
一作目は悪魔がいたのかいないのか、そこは曖昧だしどっちにも解釈出来るような作りになっているし、二作目はファンタジーだし、三作目は推理ホラーの趣なんで、別にいいけど、今作は安易なオカルト思考で悪魔払いして人が死ぬという危ない事件に見えてくる。
父子家庭という設定も若干ひとつ間違えば危ない印象を受ける。普通に考えたらこの親父が娘を虐待してるんじゃないかって疑うよね。
まあ、いろんな宗教の人間が集まって悪魔払いをするという展開自体はちょっと面白い部分でもあるんだけど、基本全員役立たず。カトリック教会の決定を破って儀式に参加した神父はあっさり首を折られて死ぬ。悪魔に立ち向かうには全員気持ちをひとつにすれば良かったんじゃないのか?(この思考も変なカルト宗教っぽくて気持ち悪かった) というか、悪魔強すぎというか、そんな力があるなら、なんでちんたら少女に取り憑いて地味に人を苦しめてるんだ? という疑問が再びわく。
結局この儀式でふたり死んでるし、そりゃーカトリックも安易に悪魔払い許可なんか出せんわな。
この作品の面白みは選択にある。最初は妻か子供かの選択。もうひとつはふたりの少女どちらを救うかという選択。聖書でも、アブラハムが神にイサクを生け贄に捧げられるか、信仰か子供を選択させられるエピソードがある。この悪魔のような選択を迫る神は果たして本当に神なのか。人は神と悪魔をどのように見分ければいいのかという気持ちになるエピソードなのだが、幸いアブラハムの神は本物の神だったので、アブラハムの忠誠心を試すだけで、実際に子供を生け贄にはしない。
さて、この映画の物語では相手は明確な悪魔であり、いわば「選択」というトラップが仕掛けられている。実は生かす方の選択ではなく、死ぬ方の選択だったというその仕掛け自体は寓話的で面白いといえば面白いのだが、大勢の悪魔払い師は所詮無力な上に、神父も無駄死にし、結局、絶望した白人夫婦が自分の娘を選択した結果、悪魔の勝利となってしまった。この場合正解は選択をしないってことなんだろうか。しかし人生選択をしないで済むことばかりじゃないしなー。ちなみにここで黒人の娘が助かり、白人の娘が死ぬって部分も何か含みがあるようなないような。
「人は立ち直れる」と最後にナレーションが流れるが無責任過ぎるというか楽観過ぎるというか。自分たちの選択のせいで娘が死んだ夫婦の絶望感はそんな言葉で払拭出来るのだろうか。また黒人親子にしても、実は子供ではなく妻を選択していたという事実はなかなかに重い。
いったいこの映画は何が言いたいねん? って気持ちがする。人間選択ミスっても大丈夫。どんまいどんまいって話なのか? 軽すぎるだろ。
やたらべらべら語りを入れてるけど、本家のような深みはまったくない。本家もディレクターズカットでメリン神父が哲学的なことを語る場面が追加されているけど、基本テーマ的なことはべらべら語ったりしない。それでいて深みのある映画だった。
いや、『エクソシスト』はもはや究極の悪魔付き映画なので、これを越えることは不可能なのだが、だからって劣化版を量産するのもいかがなものか。
エレン・バースティン演じるクリス・マクニールはあの事件の本なんか出しちゃったのね。そりゃリンダ・ブレア演じるリーガンも家出するわ。こういう失敗は『積木くずし』を思い出すね。『エクソシスト』の悪魔付きを非行のメタファーとするなら『積木くずし』こそリアルエクソシストだと思うのよね。
あと、こういう本を出すってシャーリー・マクレーンを彷彿とさせるというか、スピリチュアルに目覚めちゃった芸能人がやりがちと言えばやりがちだけど、変にリアルというか、クリス・マクニールはもう少し聡明な女性だと思ってたのにねー。ある意味リーガンがあんな風になったのもこの母親なら納得という説得力はあるんだけど、神父たちが命がけで悪魔払いした家庭の末路がこれかって感じ。ちなみにシャーリー・マクレーンは本家でクリス役の候補にあがっていたので、ある意味皮肉といえるかも。
おまけにクリスは自分はエクソシストではないと言いながら、エクソシストもどきみたいな行動をする。「リーガンの名にかけて」とか、祈祷みたいな言葉を発したりもする。「リーガンの名にかけて」ってなんやねん。で、なんだか知らないけど両目をつぶされる。50年ぶりに再登場してこんな扱いかよって感じ。
パズズもいつまでクリスとリーガンに執着してんのって気もしてくる。この親子がどんだけのもんなのかって話よ。まあ、『エクソシスト2』ではその理由をリーガンの人を癒やす特殊能力にあるとしてるけど、あくまでこの映画は『エクソシスト』の続編で『エクソシスト2』とは繋がりはない訳だしね。
このふたり、お話には殆ど絡まないのに、何故か唐突にリーガンが戻ってきて親子和解みたいなエンディングになるのだが、「???」って感じ。リーガン今までどこ行ってた? なんで急に戻ってきた? ってさっぱりわからんので、ただただぽかーんとするしかない。いや、50年ぶりにこのふたりが親子役で共演している絵面は違う意味でちょっと感動はするんだけど、それは物語としての力じゃないからね。リンダ・ブレアなんて『裸の十字架を持つ男/エクソシストフォーエバー』以来だから(正確には『スクリーム』)、そういう意味では制作者の思惑にのるようで悔しいけど「おお」っと思う部分があったのは事実。
これ三部作って噂もあるので、次作でリーガンのことも説明があるのかもしれないが、もう、作らんでくれって気分。『スターウォーズ』がディズニーの新三部作でルークとハンソロの扱いのひどさでぶち壊されたような気分に似ている。下手な二次創作っていうか。
こうして過去の遺産を食い潰す映画業界にまたしても憂いを覚える。
ウィリアム・フリードキンとピーター・ブラッティが生きてたら苦笑もんだったろうな。