黒沢清監督、役所広司主演の映画はコンプリートしたのだが、知人にこの映画の役所広司は最高だよっと勧められ、主演ではないけど観てみることに。
で、確かに役所さん面白かった。でも役所さんの存在が危なく映画を食ってしまうところだった。脇役にしては存在感ありすぎって言うか、途中から主役になるんじゃないかって勢いあったね。
ある家庭の崩壊と再生を描いた作品で、『ヘレディタリー/継承』を思い出す感じでもあるが、あれよりは全然救いがある。
いつもどこか観念的な監督の作品にしては、人物描写や、心理描写がこれまでにないくらいわかりやすい作品。
これは清さん以外に脚本に参加したマックス・マニックス、田中幸子の功績なんだろうか。
いつもはキツネにつままれたような後味になりがちの清さんだが、今回はちゃんと腑に落ちる作品となっている気がする。
ネタばれ
製作にオランダ、香港が絡んでいる影響なのか、舞台である東京が東京であって東京じゃないような異国感がただよっている。
まず、主人公がいきなり解雇される。30日前の解雇予告がされないと言うことは、ちゃんと解雇予告手当が支払われたということだろうか。
炊き出しがあたりまえのようにある。
日本人が米軍兵に志願出来る。
清掃員は更衣室では着替えない。
警察が未成年者の指紋を取ったり写真を撮って留置所にいれる描写(そして何故不起訴になった?)。
って感じで描写にちょいちょい「?」となるところがある。
まあ、それはさておき、この家族崩壊のすべての元凶はやっぱり父親にあるような気がしてくる。
今も残る家長制度の名残による弊害なのかもしれないが、父親が余計な親としての権威やプライドにしがみついた結果が、結局まわりをも追い詰めているようにもみえる。
それは父親のみならず、児島(適役!)演じる学校の教師もまた権威とプライドを傘に、子供のもっともな主張を斬り捨て、互いに無関心になることを望む。
この教師とよく似た父親もまた、食事で父親が箸をつけるまで、他の家族は待たなくてはならないルールから見られるように、これまでも妻や子供に己の権威を押しつけてきたことだろう。
そんな中で理不尽だったり、押し殺さなければならない感情を強いられた子供たちが、長男のように家を飛び出し、次男のように家出にいたることとなる。
妻は妻で、ドーナツに象徴されるように、家族の誰ともいまいち心通わず、ただ母親の役を演じながら、この空虚な現実から抜け出したいと願うようになる。
だから、役所広司演じる強盗にその身を委ね、逃避行しようとさえしてしまう。
このキョンキョンと役所広司の逃避行はいきなり映画のトーンが変わるというか、このままふたりの逃避行もので話が成り立ちそうな勢いがあった。
役所さんがキョンキョンの前で顔をさらし「顔を見られた!」と慌てるところなどは笑ったし、なんだったら家族を捨てて、このまま役所さんとどこか遠くで新しい生活をはじめてもいいんじゃないかとうっかり思わせるものがあったよ。まあ、それは私が役所さん好きだから思うのかもだけど。
追い詰められて追い詰められて、ついに死んだかと思われた父親が、それまでの自分を殺すというイニシエーションを経たかのように、ふっと自分の置かれた現状を受け入れた時、家族の再生がはじまる。
長男は信じ込まされたアメリカの権威による正義から、自分自身の目で正義を見極める道を選び、妻も強盗が立ち去ったことで、現実逃避が叶わないことを知る。次男も自分が子供であるという現実を知り、父親もまたリストラされ、清掃員として生きる自分を受け入れ、それぞれが家族の元に戻ってくる。
頑なに自分を縛っていた何かを手放した時、それはこれまでの自分を殺すことでもあるが、そこに思いがけない癒やしが訪れることがある。
それは父親が否定し続けた息子の才能によってもたらされる。もし父親が頑なに権威とプライドに縛られていたら、この癒やしは到底訪れることはなかった。
息子の演奏するピアノで、家族のみならず、周囲の人も癒やされる。
息子がピアノの天才であるというのは、ファンタジーであり、寓話的。
まあ、ドビュッシーの月の光は卑怯だと思うな。この曲単体でもう名曲だもん。これだけで感動しちゃうよね。
しかも最後にまるまる一曲演奏に費やすとは。
(この演奏シーンは曲こそは吹き替えのようだが、実際に子役が弾く映像とぴったりしている。この子役は実際ピアノを習っていたようなので、このような演奏シーンを演じる事が出来たのかもしれない。)
詰まるところ、夫の変化によって家族が再生出来たという印象の強いお話。
勿論、夫が変化出来たのも、その状況下をよしとしない家族の変化あってのことかもしれないが。
ちなみに、今自分がリストラされたらなんてことを考えるとちょっとぞっとするお話。
ハローワークの長蛇の列は誇張もあるが、主人公の友人の夫婦心中といい、下手なホラーより怖く感じたよ。
