1965年の小林正樹監督による、小泉八雲の怪談を原作とした映画。

ジャパニーズホラーがガチ怖くて観られない私もさすがにここまで古典になれば大丈夫。

子供の頃は民話等を集めたシリーズの『日本のこわい話』『日本のおばけ話』『日本のゆうれい話』などを繰り返し読んでいたので、ここに登場するお話はどれもなじみのある物語です。

そして、どの物語も長年語り継がれるだけあって、良く出来た筋立てだと感じます。

今回、改めて日本の怪談には悲しみがつきまとうなと言う感覚を覚えました。小泉八雲がラフカディオ・ハーンと言うギリシャ系アラブ系のイギリス人なので、彼の感覚もあるのかもしれませんが、映画化に伴う脚色がより一層の悲しみを打ち出します。

183分という長編で、特に『耳なし芳一』はかなりの時間を使っています。ここだけで1本の映画になりそう。

第18回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞他、数々の賞やノミネートを受けた名作ですが、興行収入がふるわず、製作会社を倒産にまで追い込んだそうで、なんとも残念な作品です。

今回初めて見たけれど、素晴らしい作品だし、もっと日本での評価が高まっても良いと思うのですがね。

古い映画ですが、その古さがまた味わい深いものとなっています。

 

ネタばれ

 

第1話 黒髪(原題『和解』)

貧乏に疲れ果て立身出世を夢見た男が、妻を捨てて任地に向かう。この捨てられた妻になんだかとても感情移入してしまって、その後病に伏してひとり死んで行った妻の思いを考えるととても悲しくなります。

男は勝手なもので、そんな酷いことをしておきながらも、戻れば妻がまた温かく迎えてくれることを夢見、実際妻は変わらぬ姿で夫を迎え入れる。

原作では翌朝白骨と化した妻をみつけ、のちに彼が戻ったその日が妻の命日だったとわかる流れになるのですが、映画では怪談度数があがり、妻の黒髪が襲いかかり、その恐怖にみるみる内に夫も老いていくというかなり怖い展開となります。

妻は夫を恨んではいないと言いつつも、心のどこかでは許せなかったのでしょうか。それとも、今度こそ離れまいと、あの世に夫を引き込もうとしているのでしょうか。あるいは男の理想と現実のギャップによる怖さとも言えます。

なんにせよ恐怖におののく三國連太郎の鬼気迫る演技が凄まじいです。というかこんな若い三國連太郎をはじめて観たので、最初は誰だかわからなかったですよ。

曲の使い方も緊張感があっていいですね。

ちなみに、本来は夫に捨てられた妻がどんなに寂しくひとり死んでいったか、それでも帰ってきた夫を優しく迎え入れる妻のいじらしさ、悲しさをしみじみ感じるお話です。

 

第2話 雪女

こちらはもうお馴染みのお話ですが、泣きましたね。まさか雪女で泣くことがあるなんて。

原作では妻となったお雪の前で、うっかり口止めされていた雪女の話をして、危うく殺されかけるも、子供の存在で見逃されるという展開なんですが、映画はここにさらに泣ける要素が加わっていて、雪女をそうとは知らずに妻にした巳之吉が、彼女の為にわらじを作るんですよ。はじめてお雪を家に連れてきたときに、彼女が足を洗う様を嬉しそうに眺める巳之吉ですが、それが伏線というか、結構足フェチ的なイメージに描かれている気が。

子供と美しい妻とこれから迎える新年を思って幸せの絶頂の時に、ふと過去をもらしたことでお雪が立ち去ることとなり、一瞬にして幸せが崩壊する様が、なんとも悲しいのですよ。巳之吉演じるのが若い仲代達矢でね、あの大きな目をうるうるさせながら、わらじをそっと外に置く様、そして泣き崩れる様が、ものすごく胸に迫ってもうこっちもボロボロ涙が出てきちゃって。彼がわらじに込めた妻への愛が本当に切なくてね。

タブーを破って酷い目に遭う話しは昔話の定番ではあるんだけど、大切な人が不意にいなくなると言うのは、いろいろ象徴的にもとれてね、幸せってふとした瞬間に簡単に壊れることもあるんだなという、ああ、雪女ってこんな悲しい物語だったんだなーとしみじみ思いました。

 

第3話 耳無芳一の話…

このお話も定番ですが、でも実によく出来たお話ですよね。目の見えない芳一が琵琶を披露していた高貴な方々が、実は平家の亡霊で、芳一はそうとも知らずに墓場で平家物語を語っているシチュエーションもぞっとしますが、やっぱり亡霊から隠れる為に施した体中のお経というビジュアルのインパクトがすごい。そして、お経を書き忘れた為に耳だけが持って行かれるという、いや、完璧な物語展開ですよね。

4話のオムニバスの中で一番凄惨な物語にもかかわらず、その後芳一が金持ちになってめでたしめでたしというあっけらかんとした後味のギャップもなかなかです。

田中邦衛がかなり若いのですが、若くてもすぐに田中邦衛とわかるというか、既に邦衛節を発揮しております。

丹波哲郎もやっぱり不思議な存在感のある俳優ですね。

これでもかってくらい平家物語が語られるのも見所です。

 

第4話 茶碗の中
小泉八雲の怪談には、『むじな』とか『ろくろ首』とか他にも有名なものはたくさんあるのに、オムニバスのラストに何故これをチョイスしたのかは謎です。個人的には『幽霊滝の伝説』を取り上げて欲しかったかな。
これをはじめて読んだ時は、怖いと言うよりなんとも奇妙なお話というか、その中途半端さが印象に残るお話です。
唐突に茶碗の中に顔が現れ、それを飲み干したら、顔の主が現れてそれを責め立て、追い払ったら後から家来がやってきて、主人が後に必ず復讐にくると予告して物語が唐突に終わります。勝手に人の茶碗に現れた挙げ句、不法侵入で切りつけられ、傷を負った様子もなかったのに、怪我をしたから仕返しをすると言い出すとは、あまりに理不尽な話しだとも思いました。
ただ、茶碗の中に顔が洗われるというビジュアルは非常に印象的です。
映画の冒頭でもありましたが、果たして、何故この物語が中途半端に終わったのか、それこそ作者が途中で亡くなったんでしょうかね。
映画では、再び現れた3人の家来を追い払い、主人公が狂気に落ちるところで物語りが終わります。すべては主人公が頭の病気で見た幻覚だったと言うことでしょうか。エピローグ的に物語の作者は水瓶で死亡している姿が発見されます。まるで水死した作者が見た悪夢のようにも見えます。ただ、これはあくまで映画的解釈。
ということで、この機会に、『茶碗の中』が書かれた背景に何があるのか調べてみました。
『茶碗の中』の原案は日本の説話集新著聞集の中の『茶店の水椀若年の面を現ず』であるらしく、こちらは未完ではありません。
尚、この原案の舞台が本郷の白山の茶店であることを記しておきます。
ということは、未完としたのは読者の想像力をかき立てる上での、小泉八雲の手法だったのかもしれません。
さらに調べると非常に興味深い文献を見つけました。その文献によると物語の背景には衆道(武士同士の男色)があると言うのです。
なるほど小泉八雲の描写でも茶碗の顔、式部平内は「中々の好男子で、女の顔のようにやさしかった。」(田部隆次訳)とあるように、非常に男色的イメージが見えてきます。原案でも「いと麗しき若年の顔」とありますので、そのような意味合いが感じ取れますね。
で、主人公の中川佐渡守が彼を飲み干す行為、相手の魂を飲み干す行為とは、杯を交わすということは相手を受け入れたことを意味する訳で、にもかかわらずその気になった式部平内を中川佐渡守は知らぬ相手と拒むのです。式部平内は幽霊のようにその場から消え去り、物理的に切られる描写がなかったにも関わらず傷を負ったと申し立てるのは、いわゆる心の傷を現している訳で、そこから痴情のもつれによる争いに発展したと考えるなら、この物語は非常に合点がいく訳です。
式部平内が終始実態が確かでないあたりは、まるで現代で言うところの出会い系サイトのような関わり方のようにも感じます。マッチングアプリでマッチングしたと思ったら、相手は連れない態度。そりゃー、式部平内もとげとげしい態度になりますね。そう考えると、式部平内の攻撃的な言動も理解出来ます。原案では茶碗の顔の主は主人公に恋慕の情を伝える一念で現れたとされているようです。熱烈な片思いですね。
江戸時代初期の武家社会では男色がタブーではなく、痴情のもつれから家来を巻き込んでの刃傷沙汰もよくあったようで、その背景から考えるとこの不可解な物語が非常に合点のいくものとなり、小泉八雲の手にかかってそうした背景が不透明になったことで、物語の奇異な部分だけが際立ったのだと思われます。
そう考えるならば長年謎だったこの物語にひとつ納得いったのは確かですね。
 
そんな感じで、子供の頃からなじみの怪談が、こうして大人になって改めて映画を観ることで、再度日本の文化を見直すこととなり、非常に興味深いものとなりました。
 
参考文献
牧野陽子「ラフカディオ・ハーン『茶碗の中』について」

https://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/102-103/102-103-makino.pdf