すごいなー、『アラジン』ってタイトルなのにアラジンの脇役感と言うか、タイトルは『ジャスミン』の方がいいんじゃー、いややっぱり『ジーニー』か? いやむしろ『ウィル・スミス』…。

 

『美女と野獣』に続く実写版シリーズだが、『美女と野獣』同様あのアニメーションを実写にしたらどうなるかという好奇心を満たす以上のものはない。アラン・メイケンのスコアはいいし、映像もそれなりに見せるし、すべてそれなりに楽しめるのだが、致命的なのは脚本。

これまた『美女と野獣』以上にポリコレ主張が強すぎて物語の面白さを損なっている。おまけに、アニメーションとは違うオリジナルシーンは殆どが効果的とも思えぬいらぬお世話な感じ。

 

私がアニメーションの方の思い入れがあることを差し引いても、単体としてこれは面白いのだろうかと首をひねる。

この分だと実写版『ライオンキング』も期待出来ないかも。

 

以下、ネタばれで詳細を語る。

 

 

ネタばれ

そもそものアニメーションはアラジンを主とするサクセスストーリーである。

貧しい青年アラジンが、日々憧れる王宮の王女の心をつかみ、知恵と勇気と優しさを持って国を乗っ取ろうとする悪と戦い、王となる物語である。

生きて行くために日々盗みをするが、憎めない男であり、機転やとんちが利いて、女性を金や権力で支配するのではなくちゃんとその意志を尊重する。そこにアラジンの魅力があるのだ。

 

しかし、実写のアラジンはいまいち魅力を感じない。

アニメーションではジャスミンに一目惚れするものの、王宮の人間とはまったく気付かないアラジンの純粋さが、最初からジャスミンが王女とまでは思わなくても王宮の関係者と見抜いている時点で、彼女を助ける行為に計算高さを感じてしまう。

さらに、ジャスミンの腕輪をアブーが隠したことも、後からジャスミンに腕輪を返しに行って自らアブーのせいだと語ってしまうのは、それが事実だとしても不信の目で見ると王宮の者に近づこうとする泥棒の計算に見えてくる。

この時点でジャスミンとアラジンのロマンスに影がさす。よっぽど好意を感じた若者が死刑にされたと嘆いていたジャスミンの前にその若者が王子となって再び登場するアニメーションのシチュエーションの方がロマンチックだった。

ジャスミンが自分を侍女と偽り続ける意味もよくわからんし。ジャスミンが侍女と偽り続けたことによって、アラジンが王子と偽ることの罪悪感がなんだか緩和されるような。

そして、ジャスミンに会ったあと、王宮の中でさっさと変装を解いちゃうアラジンもまぬけというか、速攻衛兵につかまってるし。

アニメーションでは王子になったアラジンがすぐになりきっちゃうあたりのふてぶてしさが魅力であったが、実写はおどおどしたり戸惑ったりと言う描写が加わり、それはリアリティはあるけど、アラジンの突き抜けた魅力が失われた気もする。

また、ジャスミンが何故アラジンをダンスに誘ったのかわからないが、ダンスシーンがやけに長い割にはあまり意味のあるシーンとも思えない。ジーニーに踊らされたアラジンを観てなぜジャスミンがさっさと立ち去ったのかもよくわからん。まさかバク転がやりすぎだった訳じゃないよね。

 

ダイヤの原石とは、ただ優しいとか、純粋とかではなく、王となる資質をさしているのかと思ったが、実写版ではその人間性が悪く言ってしまえばジャスミンにとって都合のいい男という印象しかない。

アラジンはそれこそ『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』のヒロインのような立ち位置で、女王に見初められた男というポジションで終わる。まるでただ男女の役割を反転させたような展開。それってなんだか爽快感なくない? この物語に関してはもっとベタなサクセスストーリーが観たいよ。

 

ジャスミンが女王としての資質をもちながらも女であるが故に認められない葛藤などは、別に『アラジン』でやらなくてもよくね?ってくらいのテーマで、そのパートがやけに主張が強いもんだから、物語のバランスを欠いてるし。

『アラジン』ってディズニーアニメでは数少ない男性が主人公なんだけど、そこに女性の権利とか主張を目立たせるのはなんか違うよねーという感じ。

 

ジャファーは実写では随分若い印象。強い権力思考を持ち、やたら他国に戦争を仕掛けたがる。本来の王の資質というジャスミンとの対立構造になっているので、これまたアラジンそっちのけ。だからどんどんアラジンの影が薄くなるんだってば。

ジャファーに消された衛兵隊長などは蘇らないんだろうなー(ジーニーの力でも死人は蘇らせることが出来ないし)。さりげなく残酷なシーン。

アラジンがとんちでジャファーをやりこめるあたりも、アニメーションほどのカタルシスがないというか、ジーニー以上の最強を望んだらなんでランプに閉じ込められるのか訳がわからない。

アニメーションのようにジーニーになることを望み、その宿命も受け入れなければならないというなら納得なのだが、実写は「?」な感じだ。

そもそもなんでジーニーがランプに封印されているのかわからないのだけど、もともとアニメーションでも自由の身となったジーニーはその力を失わないだなーという気分であはった。不自由と力は対になっているものと思ったから。そしてあれほどの強大な力を持ったジーニーがその封印が解かれた時、実は危険な存在になるんじゃないかという懸念は残る。

その点、実写のように自由と引き替えに力を失って人間になるというのはある意味筋が通っているのだが、ジーニーが望んだ自由が恋愛結婚というのは、なんかこうちょっと限定された世界という感じで、アニメーションのようにどこでも好きな所に行って自由に行動出来るという高揚感にならない。その先にジーニーが結婚を選択したとしても、それはまた別のお話だし、ここで語らなくても良いかなーと言う気分。

 

さらに、この物語の語り部をジーニーにしたことで、ますますこの物語の主体がどこにあるのか、分散した印象になっている。

ジーニーは確かに美味しい役だ。芸達者な俳優が演じれば名脇役を約束されたもっとも光るポジションである。配役がウィル・スミスと聞いたとき「ウィル・スミス?」と思ったが、まあ、思ったよりははまっていたようにも思う。

だが、ジーニーに恋愛要素を入れたり、物語を語る父親が実はジーニーだったという構造は、見せ方としては面白いが、アラジンの物語が一気にジーニーの物語という印象に変わる。これはジーニーのファミリー映画だったのかと。

そういう意味ではディズニー映画まで俺様映画にしてしまうウィル・スミスのパワーには恐れ入る。

だが、ジーニーの魅力はあくまで脇としての魅力であって、主役を食う勢いになってしまうのはいかがなものかと思う。そこはやっぱり主役の確たる魅力あっての上での脇役であるべき。じゃないと誰の物語なのかわからんというか、みんなが主役ってお話なんですかね、これは。

 

王様の気分次第で法律が変わるというご都合主義の世界って点は相変わらずで、アニメーションの時も「だったら、王女が結婚する期限も王の権限でのばせば良かったんでは?」と思うところはあるのだけど、まあそれくらいは目をつぶる。

 

とにかく、おとぎ話にあまりに今の時代性を取り入れようと力みすぎるのもいかがなものかというか、それをうまく取り入れられるならいいけど、変に浮いていて純粋に物語りの面白さが失われるは、ここ近年のディズニー映画の傾向としては残念な部分だ。

ちなみにアニメーションでもアラジンの物語に自由というテーマを組み込むことに若干の違和感はあったのだが、あれはまだ許容範囲。今回はさすがにやりすぎ。

 

ミュージカルシーンは、実写の美しさはあるけど、演出面ではやっぱりアニメーションの方が高揚感があった。

特に『ホール・ニュー・ワールド』は期待してただけに、なんだか国の周辺を飛び回っていただけかという矮小感を覚える。やっぱりアニメーションの用にエジプトや東洋などまさしく広く新しい世界を見せて欲しかった。

もっとも、本来アニメでは王子と義務的に結婚しなければならない、王宮の外にも出られない、自由のない王女という立場のジャスミンが、魔法の絨毯でこれまで知らなかった広い世界を見るという高揚感のある場面なのだが、実写のジャスミンは自由になりたい、広い世界が見たいということ以上に、国王になる事が主眼となっているので、本来このシーンや歌が持つ意味は薄れてしまっている。

このように本来物語に沿って作られたミュージカルシーンが、無理矢理違うテーマをねじ込むことで、歌と物語とのマッチングを失っているのも問題。
「Trsut Me」もジャスミンがアラジンと気付く重要なシーンだが、実写ではあまり効果的な演出になっていない。

 

ちなみにこの映画よい面はジャスミン演じるナオミ・スコットはとても美しくビジュアル的には眼福ではあった。