※ネタばれでいきます。
これまた『ブラック・クランズマン』の流れで再見したくなったんですよね。
名画の筆頭にあがる作品ですが、昨今では差別映画として上映禁止になったりもするようです。でも、原作にくらべて映画は差別的描写に配慮されているそうですね。
南部の白人視点による作品なので、差別問題に対する内省的批判はあまりみられないのですが、この作品のメインは差別や奴隷制度の是非にはないということなんでしょうね。あくまで南北戦争とういう激動の時代、南部の貴族社会の没落、その時代の変革をたくましく生き抜いたひとりの女性の生き様を見せる作品です。
また、こうした南部の貴族社会を別段よしとしている訳でもなく、レットという存在によって痛烈に批判している部分もある訳です。
私は奴隷制度や、人種差別問題はアレックス・ヘイリーの『ルーツ』から入った口なので、人を奴隷として扱う非道さに憤りを覚え、何故白人はこのようなことが平気で出来るのだろうと理解できなかったのですが、南部の白人視点に立つと、それが当然として生きてきた者にはおもんばかる余地がなかったのだなーと言う印象を受けます。そういう意味では南部の白人の意識を知る上でのサンプルになる訳です。
映画では明確化されませんが、アシュレーをはじめスカーレットのまわりの白人男性がその殆どがKKKだと知った時は衝撃的でしたね(ただし、レットはKKKに所属していません)。KKKと言えば悪名高い集団ですが、アシュレーのような良心的とも思える存在があたりまえのようにKKKであったとは、南部人視点から観た時の感覚の違いに驚かされます。
ここでは、アシュレーは自分の代になったら奴隷を解放すると言っていたし、オハラの当主も奴隷の扱いに関してスカーレットに注意を促すなど、比較的良心的で良好な関係が描かれていますし、マミーなどは結構な発言権を持っています。まさに『ジャンゴ繋がれざる者』のサミュエル・L・ジャクソン的な立ち位置の黒人もいたのでしょう。ただ、時に白人よりも権限があるかのようにふるまっていたとしても、そこには歴然と主従関係があり、決して対等な関係とは言えないのですが、私はまあ、このような一見良好と思える関係性も一部にはあったと推測されます。だから奴隷制度が良かったという話しではありません。ただ、あくまでこの作品はその良好と思える側面のみにスポットを当てているということだけです。
原作においてはもっと露骨な差別的発言もあったようで、黒人からの批判的パロディー小説『風なんぞもう来ねえ』なんてものもあるようですが、勿論黒人側の「そんな美しい関係性じゃなかった」と言う忌々しい思いもわかるとして、何度も言いますが、この作品のメインはそこにはないのです。
批判はあっていいと思いますが、だからと言って上映禁止にまでしちゃうのは、作品の本質的な部分が見えていないのではないかと言う気がします。
というのも、この物語の主人公スカーレットは決して肯定的な存在として描かれている訳でもなく、というか、否定や肯定という次元ではなく、過ちも愚かさも内包しつつそれでもたくましく生き抜くというパワーを描いた作品と言う意味では、彼女自身が南部そのものと言ってもいいと思います。そういう意味では彼女が批判されるのも当然と言えば当然。それでも、そこを含めて人間的なものを感じるのです。
メラニーのような理想的女性像に対して、時にはモラルに反することをしても生き抜くという強烈な主人公は、褒められるべき人物ではないにせよ、己の欲望に忠実に、閉塞的な価値観を蹴散らす存在という小気味よさもある訳です。勿論ただわがまま勝手なだけじゃなく、彼女なりの道義も一応あって、アシュレーとの約束を守りメラニーを見捨てず、時に家族や土地を守る為には信じがたいパワーを発揮するというのも、彼女に対する好き嫌いはともかくとして圧倒される訳です。少なくともスカーレットみたいな生き様、やれと言われてもやれないですからね。
実際に目的の為に手段を選ばぬあの姿勢は怖いし、側にいて欲しくはないですが…。
ある意味、レットやメラニーは娼婦とさげすまれる存在にも、対等な意識を持っていますが(レットに至ってはマミーの尊敬を得たいとさえ思ってましたから、かなりバイアスがかかってない人物と言うイメージ)、スカーレットはやはりそういう存在を見下しているという意味では人格者とは言いがたい、主人公としてはかなり不完全なイメージです。むしろメラニーはそんなスカーレットのよこしまな心を夢にも思わぬ人格者、天然の淑女であり、スカーレットの美点のみを見、自分とは違う行動力に憧れさえも持っている、そしてスカーレットとはまた違った強さがある人物で(ある種の図太さもある)、最初はスカーレット同様いかにも男性ウケしそうなつまらない女性という印象なんですが、彼女は彼女で実にあっぱれな女性という思いを強くするのです。
スカーレットは母親を理想型とし、母親のような淑女であろうと思っているし、彼女が唯一良心の呵責を覚えるのはこの母親という存在でもある訳です。しかし母親にしてもその分身とも言えるメラニーにしても早死にしてしまう。理想の姿とはどこかはかなく長くは続かないものですね。
スカーレットの父親は良妻賢母であるスカーレットの母親に精神的に依存し、彼女の死後は弱さを露呈します。アシュレーもまたメラニーに依存し、メラニーの死後は弱さを露呈するあたりは、スカーレットの父親と似ているというか、だからスカーレットはアシュレーに惹かれたのかなーと思う節もあります。
手に入りそうで手に入らない永遠の理想像というところも味噌だったんでしょうね。
レットとスカーレットの関係は宿曜で言うところの安壊の典型みたいです。
互いに惹かれながらも肝心なところで思いがすれ違い、なかなか結ばれない上に、結ばれても不幸が度重なり幸福な結果を残さない。もし、安壊ってどういう関係と聞かれたら、これをサンプルにすると話しが早いってくらいのテンプレートですよ。
特に映画ではスカーレットの流産と立て続けにボニーが死んだ直後にメラニーも死亡するので、不幸のオンパレードと言う感じです。まるで安壊で言う破壊作用って奴みたいな。
ここで、スカーレットがもっと素直になれば…、もっとレットが彼女に挑発的態度をとらなければ…、って瞬間がいっぱいあって見ている方はもどかしいばかり。
そして、レットもスカーレットも似たもの同士というか、スカーレットもやっとアシュレーが手に入る瞬間に思いが冷めてしまうし、レットもやっとスカーレットの思いが自分に向いた瞬間に思いが冷めてしまうあたりはそっくり。このふたり手に入れるまでがなんだかんだ醍醐味なんじゃ? って気もしてくるのです。
だから、続編でレットとスカーレットが結ばれるなんて展開は私はあり得ないと思っているし、仮にレットの心が再びスカーレットに向いたとしても、その瞬間スカーレットが冷めるんじゃないかって気もします。
実際、作者のマーガレット・ミッチェルはこのような別れを経験していて、レットのモデルとなった男性と再び結ばれることはなかった訳で、人生と言うのは時にどうしようもないことってあるんですよ。こう言ってはなんですが私の人生にもありました。
映画では冷めたレットは非常に手厳しくスカーレットを捨てていきますが、原作の方がもう少し優しいというか、その優しい態度のひとつひとつに本当に取り返しのつかない心情を感じるので切なさが増します。
それでもね、人生どうしようもない別れがあっても、なんとか明日に希望を持って立ち上がるスカーレットの姿は素晴らしいのです(あのタラの合唱は父親やアシュレーや、多くの男たちの妄執に若干洗脳されているように見えますが)。
時に人生にももう立ち直れないと思うほど打ちのめされる事もあり、そのまま打ちのめされちゃう人もいて、それはそれでしょうがないこともあるのだけど、でも、どこかでスカーレットのように再び明日に希望を託す強さを夢見るのですよ。だって、それがなければ人類は存続出来ないという気がしますもの。この作品が名作と言えるのはそこにあると思います。
ところで、私は土地を所有していないので、土地を支えにするという心情はちょっと理解しにくいところでもあるのですが、大地とは一種の神に近い感覚なのかなーとも思いますね。人間を超えたもっと大きな何か、通常それは宗教となるところを、スカーレットは観念よりもっと物質的なものを心の支えにしているのかなーと思います。
ちなみにスカーレットがレットに出会ったのは17歳(16歳?)で、レットと別れたのもまだ20代の時と推測されます。レットは30半ばと推測される年齢だったので、なかなかの年の差。そういう意味では若い娘に入れ込んだおっさんがふりまわされ疲れ切って立ち去ったという身も蓋もない話しにも思えます。
とりあえず今でこそメロドラマのテンプレートみたいな内容に思えるかもしれませんが、テンプレートとなるほどのストーリラインをここに確立したまさに元祖と言えるような気がします。
このチョイワル男レットも、女が夢見る男のテンプレートと化しましたしね。
(ちなみに、私はレットにさほど魅力を覚えないんですよねー)
それにしてもこれが1936年の作品というところに驚愕しますよね。カラーの美しさや、CGではない大炎上シーン、そして大量のエキストラと、映画史に残るのも納得の力を放つ作品だと思います。
