この映画を観ると毎度泣いちゃうんですよ。
今回も久しぶりに観たらまた泣いちゃった(てへぺろ)

この映画はジェームズ・ディーンの魅力もあって、自ずと弟に感情移入しがちなんですが、実は一番可愛そうなのは兄貴なのかもしれないという気も致します。兄貴は兄貴で自業自得な部分もあるのですが、弟には救いがあるけど、兄貴は本当に救いがないのですもの。

実は映画はスタインベックの原作の後半3分の1くらいしか描いていないのですよね。
これとは別に1981年に製作されたアメリカのドラマ版『エデンの東』がスタインベックの原作に非常に忠実で面白かったので、メディア化されないかなーと思っています。

ちなみに吹き替え版で観たのですが、野沢那智のジェームズ・ディーンの吹き替えはちょっと違和感ありましたね。どうしてもブルース・ウィリスかコブラに聞こえて来ちゃって。


ネタばれ
父親の息子(弟)に対する感情って、母親に似て彼の規範を平気で飛び越えるあたり、理解出来ない苛立ちとかもあるのでしょうが、どこかで羨望もあるんじゃないかなーという気がします。でもそれを受け入れたら自分自身が揺らぐという恐れもあるんじゃないかなーっと。
それはそのまま父親をコピペした息子(兄)にも言えることで、荒療治ではあったけど真実を突きつけられたことで兄が一皮むけるチャンスでもあったのではと思うのだけど、実際は恋人の心は弟に奪われるし、母親の偶像は打ち砕かれるし、もはや父親への信頼さえなくなり、狂気のような自暴自棄状態ですからね。原作でも戦死という救われない話です。
父親も限界を超えたことで死の床につくわけだし、あの強気の母親でさえ自殺に追い込まれる訳で、弟は家族の不幸という代償のもと、やっと父との和解を果たすのだけど、実は非常に犠牲の多いお話なんですよね。
皆それぞれにそれぞれの生き様を貫いた結果とはいえ、この家族を襲う悲劇は一体なんの罪に負うところが多いのでしょう。
親子でも家族でも兄弟でも恋人でもとにかくあらゆる人間関係、相性って大事だなーっと思います。(え、そういう結論???)

また、この物語は旧約聖書『創世記』第4章のカインとアベルがベースになっている訳ですが、旧約聖書の話では兄が弟を殺すという構図になっているのに対して、『エデンの東』は弟が間接的に兄を殺すという逆転した構図になっています。
しかし旧約聖書にしても、兄弟の確執をもたらしたのは、神であるヤハウェが兄弟の収穫物に対して弟だけを評価したからであって、一番罪深いのは神の方ではないかと思うのですよね。
(神には神の規範があり、その規範に反したから兄は無視されたということなのでしょうが)
『エデンの東』にしても、この場合誕生日のプレゼントについて、兄弟をことさら比べる父親の責任は大きいと思うのですよ。若い兄弟にとっては父親は神と同等のポジションですからね。この父親もまた彼の宗教心からくる規範があって、その規範にそぐわない弟を受け入れることは出来なかったのでしょうが、もう少しだけやりようがなかったのかなーっと思うんですよ。とにもかくにも彼は無意識に兄弟の確執を高めてしまったと言えましょう。無論父親はその結果を背負うことになった訳だし、最後に許しを与えることは彼自身の許しとも言えるのですが。
一夫多妻制という男性にとって夢のような制度にしたって、イスラム社会では夫は多数の妻をすべて公平に扱わなければならないという責任がある訳で、どこぞの夫みたいに怒りの矛先が自分に向かないよう妻と愛人の確執を煽って自分は蚊帳の外にいるようなものではないのです。
そういう意味では神は、あるいは神のような立場にいる者は慎重に人を扱うべきだと思うのですが、ちょっと話がそれすぎましたか?

『エデンの東』はそんな宗教的バックグラウンドに対して、カインの立場にある者に対して限りない慈愛をもたらすお話だと思います。
ただ、原作では弟がもたらした罪はもっともっと重いので映画の許しさえも彼を救うことになるのかはちょっと疑問です。