少し文学的に解釈してみようと思もう。

ユング心理学では人間の心には影(シャドウ)なる存在があると説いている。
この映画で言えばクリスのシャドーは敵のスナイパー、ムスタファである。

イーストウッド映画で『ヒアアフター』と言うのがあるが、あれは津波で臨死体験をした女性が彼岸を見る所からはじまる。

この映画もクライマックスの砂嵐は津波であり、臨死体験の象徴とも言える。
そこでクリスは己のシャドーを撃ち殺す。ある意味それは彼自身の死であり、彼は己の死を彼岸の果てに見るのである。
この先に行けば死がある。だから彼は家庭に戻ることを決意する。
しかし、『ヒアアフター』でもそうだが、彼岸を観たものは日常生活と乖離してしまう。
彼岸を見る超能力があるマット・デイモンもまた社会から浮いた存在として孤独を生きている。
そんな彼らが癒されるのは、同じ彼岸を見た体験者だけだ。
彼岸を見たが故に日常生活から乖離するクリスを救うのもまた、同じ彼岸を観た傷痍軍人達との交流であった。

『ヒアアフター』ではその先の希望を示唆する結末であったが、こちらの映画は悲劇に終わる。
実際のクリスも射殺されたのだから、事実にそった結末と言えばそうなのだが、私はここでもあくまで文学的な解釈を加えたい。

アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記 影との戦い』ではゲドは己のシャドーと戦うことになる。だが、この物語の結末はゲドが影を打ち倒すのではなく、影を己の一部として一体化することだった。

しかし、アメリカンスナイパーの主人公は己の影を撃ち殺し、その後も後悔はない。
彼は影を受け入れることを拒み、正しい番犬であり続けた。
その結果彼は影の報復を受けたのではないだろうか?

影の報復を受けてクリスは文字通りレジェンドになった。
だが、彼がレジェンドとして、アメリカの英雄として光り輝くほどに、中東の影はより濃くはなっていないだろうか?