人間と動物は向かう霊界が違う。
動物たちの中でも、愛玩動物界と野生動物界と家畜界などに分かれているらしい。
らしい、という表現なのをお許しいただきたいのは、私は行ったことがないから。
人間界の霊界と天界と地界は見せていただいたが、
動物界はあくまで「らしい」なのだ。
愛玩動物といっても、ハムスターなどは類に入らない気がする。
犬と猫だけではないだろうか?
フェレットとかはどうだろう。
飼ったことがないからわからない。
以前ハムスターを飼ったことがあるが、まったく話の通じない奴だった。
愛玩動物(ペット)。
それはつまり「人間の言葉で話せばわかる動物たち」である。
普通に会話が成立する。
時に口喧嘩もできる。
反抗もすれば、謝ってもくる。
生意気に、駆け引きもする。
人間の近くで、共に暮らすことを役目としている。
海外では、完全に野良であり、飼われるという存在ではない国もあると思うが、
それは人間の歩み寄りの問題であって、話せばわかる。
この中からは、後々人間になるものも稀にいる。
とても稀に。
人間よりも輪廻転生がはやく、猫は猫に、犬は犬になる。
100万回生きる猫もいるらしいから、童話では。
昨日の動物園の動物たち。
本来は野生界で生きる為の魂。
生まれ落ちたのが動物園であっても、野生は野生だ。
本来は言葉でのコミュニケーションはしない。
思ったことはテレパシーで伝えてくる。
それも人間の言葉ではないので、イメージだ。
例えば昨日の記事のクマ。
あの子は「おいで」のテレパシーに寄ってきた。
「あなた体がそんなに大きいのに、目はやたらと小さいのねぇー、見えてるぅ?」という、
私の失礼極まりない言葉にも、
『おまえわかる』というイメージを送ってきた。
言葉は通じないが、想いは通じる人間ということを言ったのだと思う。
私のことを「動物に近い人間」と認識していた。
サイキックを持つ者は、野生動物から見たら、自分たちに近いのかもしれない。
私の孫を見て『こども』とつぶやいた。
本能で、その生命の年齢を感じるのだろうと思った。
飼育員さんから日々声をかけてもらっているであろう動物園の動物でも、このくらいだ。
本当の野生動物には、まったく想いは通じないと思っていい。
彼らは言葉を必要としない。
ある意味人間よりも、鋭く確かな感性を持っているから。
動物園の動物たちは、何をしていいのか皆途方に暮れていた。
本来、生と死と日々向き合い全力で生きてゆく魂。
走ることができない。
飛ぶことができない。
生きることの意味がわからない。
そんな魂にみえた。
サル山に1匹の猿がいた。
私をじーっと見ていた。
手を振ると、少し嬉しそうにした。
つられて孫も手を振ると「可愛い」とつぶやいた。
私に「あなたいい人」と言った。
あのサルは、人間だったことがある。
そんなこともあるのだなと、初めて知った。
なぜ動物園のサルになったのだろう。
それ以上は、視なかったけれど。
以前の記事の、カラスやチャボはどうなのかというと、
まずチャボは野生と言っても人間に近く、人間の言葉の中で生きている。
なんとなく習得した程度の言葉の認識はあるのだろう。
カラスもそうだ。
野生のカラスは学習能力は高いが、言葉でのコミュニケーションはしない。
チャボやスズメと同じ程度だ。
ただカラスの中には、低級の地界から修行に来ているものが稀に混ざっていて、
その稀な奴らが悪態をついてくるのだ。
バーカ!ブース!と。
私はそれに対して、舐めんなよ低級霊のくせに!とか言うから、余計にガハガハと笑われたりするのだ。
けれど先日、孫と歩いている時に、1羽のカラスが言った。
「子供って可愛んだな」
前世で何をして低級地界に堕ちたのだろう。
子殺しでもしたのだろうか。
カラスとなって子を持って、初めて親心を知ったのだろうか。
それ以上は何も言わなかったけれど。
動物は可愛い。
動物は可愛い。
そう思う人は多い。
それは、私たちにはない、心のコミュニケーションが上手く、無・邪気だからだろう。
健気だからだろう。
その生涯は過酷であるだろうけれど、
どこかで羨ましいのかもしれない。
今息子が隣で、生まれ変わったら裕福な家の飼い猫になりたいと呟いた。
今息子が隣で、生まれ変わったら裕福な家の飼い猫になりたいと呟いた。
きっと彼は来世も人間だ。
でももしも猫になったなら、全力で愛してあげようと思う。
今と同じように。