おはようございます。
自己実現を繋ぐ
心理カウンセラーの井手章紀
(いであきのり)です。
人生生きていると
遠回りだったり、無駄だったり
失敗だったり、汚点だったり
そういったことに出会うことは
珍しくありません。
どうしても人生を振り返った時
あれがなければ、あれをしなければ
もっとうまくいった
完璧だったと思うこともあるかもしれません。
きれいに出来上がった思い出という絵に
黒い点が一つついているだけで
そこにしか目が向かなくなる
皆様も一つや二つそういった経験はあると思います。
これは私が小学二年生のころの話なのですが、
昼休みにクラスの何人かがハンカチ落としをして
遊んでいたんですよね。
私も見てて楽しそうだったので
入れてもらおうとしたのですが
その時そのクラスの人(Aさんとしましょう)は
満面の嫌な笑みで
「嫌だ」と仲間外れにされました。
私にはそれまでもそのAさんから
ちょくちょくそういった嫌がらせがあっており、
その時にそれらが一気に爆発して
悔しさのまま私はAさんの背中を
一発叩いて逃げていきました。
クラスの中でその件は話題となり
Aさんは先生からお𠮟りを受けることに。
ただ、そのAさんも当たり前ですが
私に叩かれたと先生に伝え、
「それはあなたも良くない」と
私も叱られて喧嘩両成敗。
ただ、それからそのAさんとは仲良くなり
対等に接するようになりました。
勿論、嫌がらせもなくなりました。
この話を聞いた人は
成功体験だという方もいるでしょうし
実際そう思われる方が多いかもしれません。
ただ、私としては
一言でも「怒られた」体験のため
そこでスイッチが入ってしまい、
折角このように仲が深まった体験でも
仲が深まったと同じくらい
怒られた失敗体験として残っていました。
もっといいやり方があったのではないか
もっときれいな解決策はあったのではないかと
ついつい考えてしまうのです。
私は暴力を肯定するつもりは
全くありませんが、
当時の環境では
おそらくこれ以外の方法では
自分を守ることはできませんでした。
仮に何もせず先生に嫌がらせを受けたと
ただ、報告しても
その場限りの謝罪だけで
その後も何かしらされていたと思います。
強いて言うならこうして爆発する前に
凛とした態度で
きちんと相手に嫌と伝えるのがベストですね。
今はもうそもそも怒られたくないという
感覚に気づき、しっかりと感じることで
一つの大切な体験となってします。
人生というのは
そもそも体験があって成り立つ存在です。
それがどんなものであろうと
大切な存在です。
決してきれいな体験でなくても
必要な体験なのです。
そうは言いつつも最近は完璧でなくていいという
フレーズが増えてきました。
その方向は本当に心地よい方向だと思います。
完璧を目指すと実際何事においても
あらさがしにしかなりません。
完璧というのは
完璧でない状態があって初めて成り立つ存在であり
完璧でない証拠というのは
探せば終わりはありません。
では、完璧が敵かというと
そうではありません。
完璧を敵にすれば
この問題の本質は見失われます。
完璧というのは先ほど完璧でない状態があって
初めて成り立つと言いましたが
もう少しざっくりと言いますね。
多くの人が追い求める完璧な姿というのは
その人その人にとっての
都合のいい部分の寄せ集めのことなのです。
私の先ほどの体験を例とするなら
怒られずにスマートに相手が悪いことにして
謝らせて万事解決が理想なわけです。
自分が傷つかず、被害者のまま終わる
決して問題の本質が解決しなくても
それを求めてしまうのです。
凄く身勝手に見えますが
これが完璧の先にあることだと私は思います。
また完璧でなくてもいいと言いながらも
その人自身にとっての都合のいい部分だけを
切り取って表現しているのなら
それもまた心のどこかで
完璧な姿を追い求め、
自分の都合のいい理想を
見せているにすぎません。
だからと言ってじゃあ本当に完璧でないことを
言ったりしたりすればいいかというと
そうではありません。
それは自分を卑下に扱う行動であり
決してお勧めいたしません。
じゃあどうしたらいいのと思われるかと思います。
まずは完璧を求める自分に気づいてください。
この感覚を抑圧したまま
何をしたとしても完璧の基準に振り回されます。
そして完璧という言葉の使う際の
その裏にある心の闇に気づいてください。
今、多くの方が意識的であれ
無意識的であれ完璧を追い求めているように
感じられますが、
実際は本当に完璧でありたいというよりは
完璧でない、失敗、無駄、汚点、
そういった存在に
出会ったり表現してしまった際の
自分の罪悪感や他人からの視線からくる
あのどうしようもない惨めさを感じたくなくて
そういった存在を追い求めてしまうのだと思います。
そして、そういった人を見かけた際
ついつい心の中で馬鹿にしたり
上から目線で優しくしたりと
その完璧でない姿を
特別に扱ってしまうのではないかと思います。
そもそも完璧や完璧でないという事象は
ありません。
ただ、事実があるだけです。
私の例で言えば嫌がらせを受けて
腹が立って叩いてしまった。
その結果どちらも怒られたけど
両者の仲は深まった、それだけなのです。
それを私が完璧だったか
そうでなかったか判断しているのです。
皆様もご自身の中にある
完璧という枠組みを探してみてください。
それに気づくことができたら
あとはその裏にある感情をしっかりと感じてみてください。
勿論、それもまた完璧にする必要はありません。
完璧の基準を使っていたら
それに気づく→感じる、その繰り返しです。
すると、そもそも完璧か完璧でないかという
基準に囚われることなく、
事実をしっかりと
俯瞰することができるようになりますよ。
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