おはようございます。
自己実現を繋ぐ
心理カウンセラーの井手章紀
(いであきのり)です。
「自由」という言葉を聞いた時
私たちには何だか心地よいものに聞こえます。
ただ、この自由も求めすぎてしまうと
息苦しさを感じる要因にしかなりかねません。
なぜなら人は自由を求める時、
自由を見ているようで
不自由しか見ていないからです。
人間関係であっても
仕事であっても
プライベートであっても
趣味であっても
自由を求めると
それがどんなに自由なものであっても
不自由にしか目がいかなくなります。
自由が不自由を排除した先にしかないという
前提があるからです。
そうして不自由を排除して
仮に自由というものを手に入れたとしても
今度はせっかく手に入れた自由なんだと
それを失わせる要因となる存在を
足枷とみなし同じように排除しようとします。
すると何をするにしても
今まで以上にさらに不自由を
感じるようになると思います。
そして、また不自由さを見つけては
排除、排除、排除…。
この繰り返しが多くの方が考える
自由だけを追い求めた人生の果てです。
これは本当に自由な人生なのでしょうか?
このようなことになってしまうのは
そもそもすべての事象が
自由と不自由の
どちらもを含んだ存在だからです。
何かを体験するということ自体、
極端な話、縛りであり不自由なことです。
ですが、何事も選択し、
体験できる状態というのは
自由だと言うことができます。
逆にそれが不自由だから
選択できないというのは「不自由」ですね。
何だか言葉遊びのようで
イライラされたり
極端な考えだと思われるかもしれませんが、
自由を求め、そこに幸せがあると
考えられている方ほど
この点は注意されてみて下さい。
私たちは自由を楽しむ時
同時に不自由さも楽しんでいます。
だからと言って
勿論ですが不自由であることが良いとも
思いません。
ただ、自由=幸せというのは
本当に違うなと私自身、実感しております。
私も自由を追い求めてきた一人です。
自由な生活にあこがれ
それ以外の自分を縛りと感じる関係性や存在の
ありとあらゆるものを否定し、避けようとした結果、
そこには自由な生活どころか
何もないことを知りました。
すると、今まで心地よかったものにも
だんだんと不快感を感じるようになりました。
自由を求め、不自由を排除した先には
幸せしかないと思っていたけれど
そこにあったのは心地よさではなく
何もしたくない虚無感と
その自由を奪われたくない独占欲、
これらの終わらない苦しみしか
ありませんでした。
自由こそが心地よい世界なんだと
自由にしがみついた先には
自由な選択だけを求める選択しかできない、
それこそ「不自由」な現実がありました。
そして、その不自由さを
感じることが嫌で、
さらに自分の自由という名の
「不自由」を守ろうとしていました。
これほど本末転倒という言葉が
似合う状態はありません。
私たちは不自由を楽しんでいる、
不自由があるから自由な選択ができることを
知っておいてください。
勿論中には本当に
自分や他人を傷つける不自由もあります。
それを肯定しようとは全く思いません。
ですが、何かと不自由さを嫌い
自由さにしがみついていることもまた
自由という概念に囚われた「不自由」なのです。
本当の自由を知っている方ほど
自由を求めません。
自由を追い求めた先には
不自由しかないことを知っているからです。
自由であろうが不自由であろうが
それすらに囚われずに選択ができること、
それが本当に人生を
自由に生きるということですよ。
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