おはようございます。
自己実現を繋ぐ
心理カウンセラーの井手章紀
(いであきのり)です。
これは数年前、私がマンションの
エレベーターに乗っていた時の話です。
私は一階に降りるために
エレベーターに乗っていたのですが
その途中でエレベーターが止まり
一人の方が乗ってこられました。
そして一階につきましたが
私はすぐに降りず相手の方に「どうぞ」と伝え
エレベーターの開くボタンを押して譲りました。
しかし、相手の方は
「いえいえ、お先にどうぞ」と
降りずに横についたボタンで
譲って下さいました。
そこで私は揺らがずに
「いえいえどうぞどうぞ」と先に譲り
お相手の方もどうぞどうぞと譲り合う状態が
5秒くらい続きました。
そこでは結局相手の方が折れて
「では…。」と降りていきました。
その時の私も
「これは流石に何か違うよなあ」と思いつつも
用事があったため
あまり考えすぎることもなく
続いて降りていきました。
今となって振り返ると
この一連の出来事には
当時の私の本質みたいなものが
本当に出ているなあと思います。
まず、表面的な話をすると
これは善意の押し付けですね。
確かに一度「どうぞ」と譲るのは
変な話ではありませんが、
相手も「どうぞ」と言っているのに
それを受け取らずに
いえいえどうぞと言うのは
やはり違うよなと私は思います。
では、なぜ私は
そのような行動をとったのか
思い出しながら深堀っていき
当時の自分と向き合うことにしました。
すると、その善意の裏に
どす黒いものが隠れていることに気づきました。
この時、私は
無意識に相手の方と戦っていたのです。
小さい頃から私は
誰かに譲ることや気配りをする人間で
そういったことでいつも褒められてきました。
最初の内は本当に心からの善意も
あったかもしれませんが
いつしかそれが私の中で褒められるための
ステータスと化し、
いつも褒められるために
そういった行動をするようになっていきました。
またそれをしてもらうなんて言うのは
自分の中で負けた気がしていました。
私はそういった譲り合いや気配りの
出来る出来ないで
いつも誰かと戦っていたんです。
そういうことが出来る人が素晴らしい
出来ない人はダメな存在なんだと
思っていました。
譲り合いや気配りのできる素晴らしい存在として
褒められたい、
また逆にそういったことができなくて
ダメな存在に見られたくない
その原動力でこのような行動を
私はとってしまっていたのだと思います。
気配りもそれがステータス化すると
もう心からの善意は失われ、
見せかけだけの善意の
押し付けに変わってしまいます。
私はそれから
このどす黒い自分を余すことなく
認め受け入れることを繰り返しました。
これは小さい頃から培ってきた部分でしたので
少し時間はかかりましたが
最近はエレベーターですと
一応譲ることはしますが、
そこにこだわりを持つことなく
時と場合で判断するようにしています。
以前はそのポジションを得るために
わざわざボタンの前に陣取っていまし
早く降りた方がスムーズなのに
わざわざ開くボタンを押してましたからね。
また、譲った際に
相手からも譲られたときは
お礼を言って
先に出ることも出来るようになりました。
今の世の中、譲り合いや
気配りが素晴らしいとされています。
勿論、その全てを否定するつもりは
ありません。
心からの善意もあります。
しかし、それが出来る出来ないで人を判断し
またそれが出来る具合で自分と他人の違いを
確認するためのステータスとなっているのなら
その譲り合いや気配りはただのエゴです。
ただ、それが悪いとかダメだとかの議論は
今回の話とは本質がズレていきます。
それだと、次は
その行動に伴う善意が本物か偽物かを
チェックしようとしてしまいますからね。
ただ、そういった生き方というのは
心がすさんでいきます。
相手からの心からの善意も
受け取ることはありません。
自分にとってそれは
戦うためのツールであり
どれだけ優しくされても
当人には点数稼ぎにしか見えませんから。
凄くそれって悲しいことです。
譲り合いや気配りが
素晴らしいとされている方ほどこの話は
一度考えて見られてください。
その行動を否定しませんが
やられればやられるほど
心の器は狭まっていきますよ。
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