皆様こんにちは。Akiです。
このブログは私個人の意見によって
書いているものです。
※今回結構長いです。
前回の
セッションの気づきの続き
いきましょうか。
私は「悲しい」と
いう感情に蓋をしていました。
いつも怖い、怖い…
怖いものがひとよりも
多かった私。
そして、そんな怖がりな
自分に対して怒ってた。
でも、そこに
「悲しい」という
感情が無かった。
昨日セッションを
受けてよく分かった。
私、悲しかったんだ。
いじめられたときもそう
それにいつも怯えてばかり
確かに怖いだろうし
辛いと思う。
でも、嫌がられて
きもがられて
私、悲しかったんだ。
私、「悲しい」って
感情に蓋をしてたんだ。
人に近づけない
↓
近づかないメリットがある。
↓
近づくことで起こる
デメリットの回避。
↓
・人に近づいたら離れて
いってしまうかもしれない。
・人に近づいたら拒否されたり
拒否してなくても
そのように自分が
感じてしまうかもしれない
↓
それは怖いでも怒りでもない
ただ、「悲しい」こと
↓
でも「悲しい」を感じたくない
(感じないようにする
=感情に蓋をする)
↓
なら人に近づくことを
苦手にしてしまえばいい。
そうすれば自分から
近づくことはない。
こういうことが
私の心の中で
起きてる。
そうすると
いじめる人間を怖がり
そういう人に対して怒る
決して悲しい感情を
感じないようにする。
ただ、されたことが
悲しかっただけなのにね。
私の人に近づくことに
苦手意識がある
理由は前回話した
自己重要感の問題と
今回の「悲しい」
を感じたくない心の
二つに原因があると
分かりました。
表向き(顕在意識)は
人と深く付き合うのが
苦手。
でも本当は
拒否されたり
嫌な顔されたりした時の
感情を感じたくない。
そして、そんなこと
今まで一度もないのに
自分が人と仲良くなると
嫌な変化をするかもしれない
↑そんな嫌な想像を作る
自己重要感の低さ。
そんな所ですね。
じゃあなんで
そんな心になったんだ
って話よね。
まあ、元をたどれば
両親なんだけどね。
うちの両親はね
私の怖いものが
多過ぎ問題、それを
克服させようと
しました。
それは勿論、
両親の素直な優しさ。
怖いものが多かったら
苦労するだろうと
思う両親のね。
まあ、これは当然の
行動なんだけどね。
ただ、幼い私は
無理矢理、自分にとって
怖いことを
やらされたわけよね。
例えば運動会のピストルが
なったときとかに
私は怖いから
耳塞ぐんだけど
それを見て親が
怒ったり
おもちゃの
「黒ひげ危機一髪」
が怖いときとかさ
それしないと
ゲームさせて
もらえなかったり。
両親なりに
必死なんだと
思うよ。
でも、怖い怖いを、
無理矢理、排除
しようとしたり
ものでつったり
しても結局
繰り返すだけなんよね。
それって
やっぱり幼い私としては
悲しいわけよ。
ただ、「怖かったね」
って一緒になって欲しかった。
でも毎回排除したり
幼い私には
きついことするから
そしたら心は
自己防衛のために
感情に蓋をするんよ。
ここで、
怖いに蓋をしないのか
って思うじゃん。
「怖い」わね、
まあ姿形を変えて
ドンドンやってくるから
その度に怖い怖い怖い怖い。
蓋をする隙を
与えず繰り返す。
ただ、蓋をしてない
所謂、感じられるかわりに
しっかり「怖い」と
向き合わずに
ほどほど(自分の
傷が深くない程度に
感じるから)で繰り返す。
だから余計に
怖いし、最初に
怖いをきちんと
感じてあげないと
先に進めない状態になる。
今はセッションを
結構やってもらって
怖いと向き合い続けた
からだいぶ減ったかな。
だから
次の「悲しい」という
感情が出てきた。
それで、
セッションの話に戻るけど
結局どういうことかって
両親にされたことが
純粋に「悲しかった」んよ。
怖いときは
怖くていい、
悲しいときは
悲しくていいって
ただ、寄り添って
欲しかった。
そこを扱って
もらったって
感じかな。
受け終わって
自分という存在は
「悲しい」という
感情を
「悲しい」まま
受けとることが
出来るようになりました。
「悲しい」を
感じれるようになった。
悲しいことは
悲しくてもいい、
ただ、問題なのは
それを排除して
無いものにしてしまうって
ことだと心から理解しました。
ごめんなさい、長くなりました。
でも、まだ続きます。
セッション自体は
ここで
終わったんですけど
その後少し
先生と話して
また、自分の気づきを
得たので。
まだ、続くんかって
怒らないでね。
もうちょっと
上手くまとめられたら
いいんだけど
セッションのことは
結構思った言葉
ドンドン書くから
普段よりも
多くなっちゃう。
それでは失礼します。