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アニメ批評

日本のアニメを考えます。

言峰綺礼のことが気になって、ついWikiで調べてしまいました。ネタバレですけど、しゃーなしだな、という感じです。
 言峰綺礼は、遠坂時臣殺害に続き、今回は前回助けた間桐雁夜を利用してアイリスフィールを誘拐します。その代償として、遠坂時臣と面会させると偽り、聖堂教会に真夜中の12時に間桐を呼び寄せます。すでに死んでいる遠坂時臣の死体を見て呆然としているところに、遠坂の妻葵が現れ、雁夜が時臣を殺したのだと誤解します。そこで、雁夜は心にもない言葉を葵から投げかけられ、驚喜のあまり葵の首を絞めてしまうのです。それをギャラリーとして眺めるアーチャーと綺礼。人が苦しむのを見て楽しむという快楽にもはや言峰綺礼はとりつかれてしまっています。
 これはどうしたことだ、と気になってwikiを参照したのです。
 その結果わかったのは、Fate/Stay nightの方の衛宮士郎は、人の幸福のためなら自らの身を捨てる人間であるのに対し、言峰綺礼は、人の不幸を見るためであればやはり手段を選ばぬ人間であるということでした。
 目的のためであれば、手段は選ばない。そういう意味では両者には共通点があります。しかし、ここには大きな溝があるように思います。人の幸福を願えば、それはいずれ自分のみに反射します。逆も同じこと。ただそれを物語にしてしまうと、単なる完全懲悪の物語になってつまらないものになりがちです。
 しかし、言峰綺礼のような、一つの悪の典型を登場させていることは、物語の構成上、重要なポイントになっています。というのも、見えない善をはっきりと際立たせるためには、より大きな悪、より根本的な悪を登場させる必要があるからです。
 切嗣自身ですら、究極的な善のためであれば、いかなる悪行をも肯定するという思想の持ち主でした。
 Fate/Zeroという物語は、一面で誰も救われない物語という側面も持つのです。救済のない煉獄、これがFate/Zeroの世界なのです。切嗣の改心というほのかに見える希望を、最大限に輝かせるために、すべての悪徳、悪行は存在するのだといってもよいほどです。
 この物語は、悪の意義を考えさせます。それが、大きな魅力ですね。
 
 その昔、という回までも現役だと思いますが、イーヴォ・ポゴレリッチというピアニストがいました。彼のショパンコンクールでの演奏は、非常に物議を醸し、彼が千から落ちると、選考委員であったマルタ・アルゲリッチは席を立ってさったそうです。
 そのぐらい独創的なピアニストが、ショパンではなくベートーベンを弾くとどうなるかというと、ショパンほど前衛的でなくなるという現象があります。個性の強い演奏家と、個性の強い作品とがかならずしもプラスの効果をもたらすわけではないということです。
 今回のルパンもそんな感じがするのです。今回のアニメは、いわゆるアニメではなくて原作者のモンキー・パンチ氏の劇画の法にテイストが近い気がします。モンキー・パンチ一色になっているというか、そんな感じです。
 今回の脚本は岡田麿里さんですが、どうもデジャブのような気がしてしまい、個人的には残念です。
 しかし、逆にモンキー・パンチをご存じない方は、意外なルパンの魅力を堪能できることと思います。
 そういえば、ルパンが吸っているジタンですが、これはフランス映画では、ボスはジタン、手下はゴロアーズだったような気がします。いやいや、懐かしいですね。
 それにしても、銭形警部は今回の方がずっと男前で頭も切れますね。
という茶々はおいておいて。坂道もいよいよ第7回ですね。今回のエピソードはとりわけ胸のすくような内容でした。

 星児のバンド、オリンポスに参加することになり、練習に忙しい千太郎と、学園祭の実行委員に選ばれた薫。2人の距離は、開いていくばかりだった。そして迎えた学園祭の当日。観客の歓声を集めるオリンポスを目にして、薫は苦々しい想いを押さえきれない。しかし、そのステージで、電源が切れてしまうという思わぬトラブルが発生します。
 学園祭の実行委員として、配線をチェックする西見君。千太郎が 、星児のバンドに加わった理由をふと耳にして、そして千太郎が自分のことを忘れていないことを聞いて、時間つぶしに、と自らピアノを弾き始めます。
 そこにドラムとして千太郎が加わり、期せずして二人のジャムセッションとなりました。この演奏も実にすばらしかったですね。

 見終わって、ふと思ったのが、日本にもJazzが熱かった時代があったということです。それに比べて、現在の日本のJazzはどうでしょうか。ジャズ喫茶が次々と消えてもう20年ぐらいになります。ついに スウィングジャーナルも2010年には休刊になってしまいました。雑誌が退潮ぎみとはいえ、日本人のJazzに対する熱意がさめてしまったからだという理由も大きかったと思います。
 なぜ、日本のJazzが力を失ってしまったのでしょうか。一般的にいって、日本人の演奏者の技量は非常に高いものがあります。しかし、日本人の演奏者の人たちの問題は、「Jazzは海外が本場」という固定観念が強すぎるところにあります。日本人が演奏し、日本人が聞いているのに、演奏する人が、どこか別なところにJazzの理想があると思っている。この構図自身がおかしいんですよ。演奏の様式こそ、海外で生まれたものであることは否定のしようのない事実です。日本人のJazz演奏家が、日本人のJazzであることにあまりに無頓着なのです。日本人の歌心の価値を認めていないことにこそ、現在の日本のJazzの退潮の大きな原因があると思うのです。あのセロニアス・モンクでも「荒城の月」を演奏していたではないですか。クラシックでも鮫島有美子さんが、日本の歌をうたっているではないですか。
 そもそもJazzのスタンダードナンバーといえば、ディズニーやガーシュインのポップな曲をもとにしていますよね。日本人のJazzの演奏社の皆さんは、なぜ現在の日本の歌を取り上げないのでしょうか?渡辺貞夫さんぐらいが、Airの「鳥の歌」でも演奏してもらえる日を私は心待ちにしています。