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アニメ批評

日本のアニメを考えます。

 「ちはやふる」も熱心に見ていた口なので、日本の古典を題材にした作品もありかなとは、広後考えていたのですが、表題通り、超訳百人一首に脱帽でした。

 和歌を残すということが、政治的敗者を鎮魂する意味もあるということは知ってはいましたが、陽成院の回は秀逸でした。本当にやられた、という感じです。

 幼くして帝位についた貞明(後の陽成院)は、わがまま放題。宮中で出会った綏子の微笑みを絶やさぬ健気な姿にイライラした貞明は、ヘビをけしかけて思いっきり嫌われてしまう。
その後退位して陽成院となり、思いがけず綏子(やすこ)と夫婦になるが、すっかり人間不信になっている貞明は変わらぬ綏子の微笑みに安らぎを覚え始めながらも、つい心無い言葉をかけてしまうのだった。

 ・・・というのが公式のHPの解説ですが、「日本三代実録」でも、藤原氏の利害関係から陽成帝の退位がはかられたこともあり、陽成帝に不利な記述になっていることは有名な事実です。ひねくれ者の陽成院が綏子に送ったこの一首がなければ、ひねくれものの心情の中にある素直な気持ちは残らなかったでしょう。

 和歌を残すことで、敗者にもしかるべき敬意を払うというのは、日本文化の奥深さだろうと思います。和歌を扱うということは、芸術の創造の瞬間を扱うということなのですから、これが劇的なものにならないはずがありません。素直に、驚きました。

 


 

 前のクールのアニメを取り上げるのは、9月に入ってから夏休みの宿題の答を必死で写している小学生の気分です。

 さんかれあも黄昏乙女×アムネジアも結局全部通してみたのですが、いろいろと考えさせられました。

 さんかれあの方は、物語に二つの軸、すなわちゾンビに恋する少年とゆがんだ父娘関係があります。ゆがんだ父娘関係という点ではうまく描けていて、説得力がありました。しかし、もう一つの軸、ゾンビに恋する少年というのはもう一つ踏み込めない領域でした。おそらくは母親の死の原因とも関わっているのでしょうが、すこし舌足らずといった印象はぬぐえませんでした。なによりもゾンビの死体としての質感を想像してみると、どうも好きになれないというか・・・違和感がつきまといました。おそらく物語の全体ではないのでこのような印象が生まれたのだと思います。

 それに対して、黄昏乙女の方は、とある学校の旧校舎にでる幽霊少女の夕子さんが主人公の貞一君に出会い、夕子さんが忘れてしまった過去を調べるというお話しでした。基本的には貞一君と夕子さんのラブコメとみれないこともないです。この作品のもつ意外性は、記憶を喪失している幽霊という設定にあります。というのも、幽霊というのは過去にとらわれたからこの世にいるとされているからです。過去にしがみつき、過去に執着し、気がつけばあの世にはいけなくなった。そんな存在が幽霊であるわけで、ここはつっこむところなのかもしれませんが、作品としての違和感はありませんでした。後半は元の原作とは異なっているようですが、きれいな終わり方だったと思います。

 で、れあさんと夕子さんとおつきあいするならどちらがいいかと考えてみたのです。物質性という点では、もと生身の人間ですから、少し有利かもしれません。夕子さんもある程度の物質化は可能ですが。また、条件はありますが、行動の自由という点では、れあ三の方が有利でしょう。夕子さんは基本的には学校の地縛霊なので、学校から出られないというのはマイナスかと思います。

 しかし、意思疎通の点では、れあさんよりは夕子さんの方に一日の長があると判断せざるを得ないのです。というのも、れあさんのほうは、実家の脱出願望の強い育ちのよいお嬢さんであるのに対し、夕子さんの方は「年上として貞一を誘惑し、弄ぶかのような言動が多いが、貞一の方からアプローチされると真っ赤になって照れる一面も見せる」(wikipedia)といういわばツンデレ属性の持ち主だからです。

 日本のアニメに、ツンデレ属性が導入されたのがいつなのかは不明にして知りませんが、少なくとも10年前にはすでに存在したように思います。アホ毛といい、ツンデレといい、すでにその存在に慣らされてしまった自分がいることに改めて驚きます。

 

 仕事は忙しいといっても、アニメはきっちり見ていました(キリッ)。


 というわけで氷菓です。いやもうすごかったですね。第8話から第11話までの映画制作にまつわるエピソードは、奉太郎の、能力のある青年にありがちな挫折が非常にうまく描かれており、つくづくうならされました。作りかけの映画を見せられて、その続きの案を検討させられる。代替案のどれもに欠点があり、結局奉太郎がベストのプランをつくる。しかし、そのプランは、本来の原作者の構想ではなかったことを里志や摩耶花、えるといった古典部の面々に指摘される。そこで奉太郎が自分の浅はかさに気がつく・・・・・。

 書いてしまえばこれだけなのですが、よいストーリーですね。奉太郎の省エネな生き方というのは、自己の可能性に対する深い懐疑に根ざしています。映画のストーリーを生み出すことで、自己の中に秘められた可能性に気づきつつあった奉太郎。しかし、それが原作者の意図と異なっており、そもそも古典部が担ぎ出された背景には大人の事情があったことをあとで知らされるのです。そこでやはりへこんでしまう奉太郎。いやあ青春ですねえ(笑)。11.5話という貴重な水着回は、いわば奉太郎のリハビリ回だったわけですが、えるちゃんの水着でも見ないとやる気はおきない、と京アニは判断したのでしょう(嘘です)。


 基本的に日本のアニメは、学校を舞台にする、もしくは学生を主人公にするというくくりがあります。必ずしも、すべてのアニメがこのくくりに入るわけではありませんが、今回の「氷菓」が、日本のアニメの基本的なプロトタイプを踏襲しており、王道を歩んでいるといっても過言ではないでしょう。基本的な登場人物が4人、それに日本のどこにでもある、どちらかといえば退屈な高校生活の中で繰り広げられる、さざ波のような出来事、そしてかすかにしか感じられない、淡い恋心をアニメで表現するというのは、これはこれで偉業であるとしかいえないでしょう。いやー、本当に京アニはすごいですね。ひたすら脱帽です。