生後2ヵ月、♀

ワクチン1回済 

5月13日の活動報告で紹介した11匹の子猫の中の、心配な子〜兄弟のへその緒が足に絡みついたていたキジ白は、女の子でした。



幸せになるように『福(ふく)』ちゃんと名付けられましたが、「知り合いには、もらってもらえなかった」と相談が来たので、里親さんを募集します。

左後ろ足の足先がなくなってしまいましたが、日常生活には支障はありません。ただ、足先が擦れやすくなるから、まめな気遣いは必要だと思います。
性格は穏やかで、扱い易い子です。
母猫は先日避妊した際に検査したところ、エイズ・白血病共陰性でしたので、ふくちゃんも大丈夫です。





人馴れは抜群です!


里親のお申し込みはアニマルクラブのホームページで受け付けています。


〘緩和ケア病棟日誌〙

 

 


《猫たちも私たちも、安らぎをとり戻せますように…》





アニマルクラブには置いておけない、手のかかる30匹前後の猫と私が暮らす自宅は、老猫ホーム兼緩和ケア病棟といえます。今年は5月までで、既に9匹看取っています。秋に出版される本『たけやん』に登場する、『ちゃこブー』も『ニャーゴ』もいなくなってしまいました。

そして、一番恐れていたことが現実となりました。伝染性白血病のキャリアが11匹居る部屋の、『ニシガン』の呼吸がおかしいことに気づいたのです。いつも食欲旺盛なのに、ごはんも残しました。5月末のことでした。白血病が発症すると、胸の辺りに悪性腫瘍ができることが多く、腫瘍の増大と胸水が溜まることで呼吸困難に陥り、またたく間に見るも悲惨な状況になっていきます。
その現実を目の当たりにした人はそれほど多くなくても、過剰なほど情報が入ってくる世の中だから、『白血病が怖い』ことは有名です。だから、不妊予防センターで野良猫の避妊・去勢をして、家に入れようとしていたり里親探しをするつもりだった人達が、白血病検査で陽性反応が出ると、態度を一変させて、「外に放すしかない」と言ったり、術後の猫を引き取りに来なかった人もいました。そういう経緯で、我が家の一番奥の部屋は、白血病キャリアの部屋になっています。これまでは運の良いことに、発症率がとても低くて、私もいつしか楽観的になっていました。

 

 

呼吸がおかしいなと気づいた5月末。

 

 

 

表情が冴えません。

 



TNRをやっている若い女性が、昨年春に去勢に連れて来たニシガンは、まだ2歳足らず。ここへ来て1年が過ぎて、仲間と平和に暮らしていました。性格の良い子だから、可哀想でなりませんでした。癌の進行の速さに、こちらの頭と心がついて行けるか不安でしたが、苦痛の軽減のために全力を尽くさなければなりません。
5月29日、病院でエコー検査受けると、心臓の近くに4センチの腫瘍があると言われ、胸水を100CC抜いてもらいました。その後は少し楽になって、ごはんを食べました。しかし、6月2日にはもう苦しくなって、また100CC抜いてもらいました。そして、4日にはもう食べられなくなり、また60cc抜けました。

そんな時、先生から「抗がん剤を使う選択肢もある」と言われました。私はこれまで抗がん剤を使った経験がなかったので、迷いました。
もちろんリスクもあります。私が一番デメリットに感じたのは「抗がん剤を注射した猫の糞尿は毒だと思って、触らないように」と言われたことでした。部屋にあるみんなのトイレに排便されては困るから、フリーにしておけない、ということです。
ニシガンはあの部屋の誰とでも仲良しで、同じ港から連れて来られた猫が、爪を切ったり注射されるのが嫌で大暴れしてネットに入れられると、心配してずっと側に付いているような友達思いです。みんなの父親代わりの『ローリー』にも、可愛がられていました。みんなと一緒に居たいはずです。
でも、こんなに早く胸水が溜って苦しくなるニシガンを見ていると、いくらかでも楽になれる可能性があるなら、試してみるべきだという気持ちにもなり、不妊予防センターの吉田先生にも相談して、受けてみることにしました。
6日、抗がん剤の注射を受けて帰ってくると、前のようにすぐに胸水が溜まることはなくなりましたが、ピタッとごはんを食べなくなってしまいました。

 

 

 

ケージに隔離すると、ローリーが見守ります。





出してやっても、ぐったり。ローリーが心配していました。



そんな中、柴犬『幸多』の朝の散歩から戻ると、隣の部屋に居る高齢猫の『ゆいちゃん』が、ドバっと吐いた途端に、ぐったりしてしまいました。ここ数ヶ月認知症傾向で、夜中や朝方に素っ頓狂な声で鳴き出し、異常に食い意地が張ってガツガツしていたのですが、最近は寝てばかりいて、一層痩せて紙みたいに軽くなったから、もう長くない気はしていましたが、まさかこんなに急にその時が来るとは思っていませんでした。
とりあえず補液して、吐き気止めやステロイドの注射を入れていたら、その途中で、同室の『ゴロウ』が吐き出しました。エイズキャリアの野良猫だったゴロウは歯肉炎があまりにひどくて、3週間前に殆どの歯を抜いたばかりです。酷い貧血状態でリスクも大きかったのですが、食べられずに餓死していくよりは、吉田先生の勤務する、設備の整った仙台の病院で抜歯する道を選びました。術後はますます貧血になり、ヘモグロビンの数値も2まで落ちてしまいました。この子も每日補液と注射が必要です。

こうやって、具合の悪い子を掛け持ちで看護するのが、私の日課です。その合間に、ヒナちゃんにミルクを飲ませ、相談を受けた、エサを与えている野良猫の不妊手術の捕獲に行ったり、里親希望者宅に、猫を連れてお見合いに行ったりします。
重症者が増えると自分のご飯を作る暇はないので、冷凍してある食パンを焼いたり、シリアルに牛乳かけたり、もっと時間がない時は、猫のごはんを作りながらせんべいを食べたりしています。前はもう少し贅沢していましたが、アニマルクラブのお金が尽きてきたことが身につまされ、外食する気も出前を取る気も起きなくなってしまいました。だから、時々手作りの炊き込みご飯やジャム、地元の小さなお店が昔から手作りしているお菓子が差し入れられると、しみじみ美味しいと感じます。そうした思いやりへの感謝が、私の原動力になっています。

自分にとって、助けを必要としている動物を目の前にして、何もできないくらい不幸なことはないと自覚しているから、自ずと自制心が働くのだと想います。活動を始めた1970年代は、保健所が『野良犬』を捕まえ、各家庭から『不用犬・猫』を集めて、毒殺したり、大学病院に実験動物として払い下げしていました。その現場もこの目で見て来たし、その頃は、自分のしたいことのためには自分でお金を稼ぐしかないと思ってきましたが、50年経って多様性が重視される社会になっても、動物たちを助ける活動に公の予算が使われないとは、想定外でした。宮城県が実施している、『飼い主のいない猫への不妊手術助成金』も、県獣医師会の会員病院しか対象ではなく、NPO法人の不妊予防センターでは使えません。
14歳で描いた『不幸な動物が救われて当然の社会』が形になるまで活動したかったけれど、最近は体力が持たなくて、作業中に突然寝てしまうことがあります。目が覚めると、一瞬、どこで何をしていたのか、解らなくなります。辺りを見回して、記憶を繋いで、仕切り直し〜シンデレラタイムに幸多の散歩に行って、丑三つ刻にヒナちゃんに謝りながら、ミルクを飲ませたりしています。


その日の午後、ゆいちゃんは静かに亡くなりました。


震災後、家から飛び出したり、飼い主とはぐれて、さ迷っていた猫たちを集めて、塩竈市のアパートの一室で面倒を見ていた女性がいたそうです。そのアパートの住人でしたが、地震による亀裂でその建物には住めなくなり、市内にある実家に引っ越して、そこから世話に通っていたそうです。本人の言い訳によれば、体調を崩して通えなくなったのだとか。
その部屋からのただならぬ猫の鳴き声や悪臭に、近所の住人が市役所や保健所に通報〜
ケージに閉じ込めて飼われていた猫達が餓死したり、共食いが起きていたという事件の唯一の生き残りが、ゆいちゃんです。ケージに入れられていなかった猫は、換気扇の穴から出て生き延びていました。

役所に通報した近所の住人がアニマルクラブにも相談をよこしたので、私は現地に赴いて、ゆいちゃんを連れてきました。よく聞けば、その近所の男性は、女性が保護を始めた当初から知っていて、最初は手伝うようなこともしながら、事が起きるとあちこちに通報するばかりで、猫のためには何一つ動いてくれようとはしませんでした。私が生き残った猫の世話を頼んでいると、その人の父親が現れて、私を頭ごなしに怒鳴りつけました。
生き残った猫達の当面のお世話は、仙台で被災動物を世話していた個人ボランティアさんに引き受けてもらえたのですが、次に行った時、体調が回復してまた世話に通うようになった女性を、罪人のようにこき使っていた様子を見て、それもまたショッキングな光景でした。天変地異の混乱は人々の心も不安定にして、バランスが取れない感情を振りかざして人を傷つけているように感じた一件でした。でも、あの頃は今と違って、被災地支援で寄付金が多かったので、生き残った猫達のために使うことができました。ワクチンや避妊・去勢手術を受けた動物病院に、そのまま預かっていただき、里親探しもしてもらいました。

ゆいちゃんは、小柄な三毛で可愛らしかったので、里親希望者もいて、トライアルにも行ったのですが、真夜中に突然鳴いて部屋を駆け回る奇行が治まらないために、出戻ってきました。里親を探すことは諦めて、一生見守ることにしました。悪夢のトラウマからは、1年位で解放されました。
そして、決めた通り、認知症になるまで見届けました。6月7日、震災と屈折した脆い心が引き起こした惨状を、唯一生き延びた小さな命は、存分に食べて騒いで、『ピンピンコロリ』のあっぱれな生涯を閉じました。

 

 


ゴロウを膝に乗せて補液しながら、ゆいちゃんの介護。



若かりし頃の、キュートなゆいちゃん。




ボランティアさんが、ニシガンが入っている大きなケージに合わせて、酸素生成機から酸素を送り込むためのテントを作って来てくれました。しかし、急に暑さも厳しくなり、テントの中に置いた温度計は室内より2度近く高くなります。どうしてやることがニシガンのためなのか〜息苦しそうな姿を見れば入れてしまい、暑くなってくればテントのファスナーを開けて、窓辺にケージを運び、エアコンを点けたまま窓も開けました。西陽が差す部屋なので、思うように室温が下がらず、ホームセンターに、遮光と熱遮断効果のあるカーテンを買いに、車を走らせたリもしました。
抵抗力がなくなり、風邪症状が出て、先生に聞いて、家で風邪の注射もしました。最初はいくらか効果が見えていたステロイドやインターフェロンの注射も、やがてはしても変わらなくなりました。他の猫がごはんでキャリーに入っている間や、掃除等で私が部屋に居る間〜目が届く時はニシガンをケージから出してやりましたが、やがて歩き廻ることもできなくなり、ヨタヨタと部屋の隅に行って倒れました。

 

 

 

酸素テントの中では、虚ろな目をしていました。






ボランティアさんが手作りしてくれた酸素テント。酸素を作る機械は、支援者さんからのプレゼントです。

 

 

 

病院で補液をしてもらったら、胸水がまた溜まったので、家でもやっていいのか、ためらわれ、水も飲めないので、やらずにもいられなくてほんのわずかやってみたり、注射だけにしたりしました。正解は何もなく、試行錯誤に翻弄される每日でした。12日、2回目の抗がん剤注射の後は、鼻から血が滲んだり、歯が弱くなっていると指摘され、副作用かもしれないと告げられたので、もう注射は止めようというところまでは決めました。
最初は健気に耐えていたニシガンが、日ごとに表情がなくなっていくことが一番可哀想でした。先生には「見ていられなくなって安楽死を選択する飼い主さんもいる」と聞きましたが、この先も生きていける自分が、目の前の死ぬしかない命を見ていられないなんて言えないと思いました。安楽死を選ぶとしたら、ニシガンを苦しみから解放する時だけです。

 

 

 


6月2週目、ケージの扉を開けても、もう歩けず隅に隠れてしまいました。



父親代わりのローリーが、いつも近くで見守ってくれる姿たけが正答でした。実は、ローリーだけはこの部屋に居ながら、白血病キャリアではないのです。当初はキャリアと、5種ワクチンを受けている健常者とが暮らす部屋でしたが、キャリアの割合が多くなったために、健常者は他の部屋やアニマルクラブに引っ越しました。隣の隣の部屋に移動させたローリーは、自分が育てた子猫の所に帰ろうと、何度も逃亡を試み、子猫たちもお父さんを呼んで鳴き続けるので、やむなく戻しました。これだけ白血病ウイルスが蔓延している部屋で暮らすローリーですから、毎年6月にワクチンを受ける前に、血液検査をしていますが、今年も陰性でした。ワクチンに感謝です。

実際、家庭用の酸素テントの酸素濃度は室内と大きくは変わらず、呼吸困難にはさほどの効果は期待できないと解っていたから、いよいよ苦しくなったら、不妊予防センターにあるICU(酸素ボックス)に入れる準備もして、手術室の酸素ボックスに繋ぐ大きな酸素ボンベも注文しましたが、誰もいない部屋で死んでいくのも忍びなかったです。

最後は、ケージから出して注射して戻そうとしたら嫌がって息苦しくなったので、出したまま、もう動けないニシガンを仲間が囲んで、その中で体を支え声をかけながら、短い時間で息絶えたので、ほっとしました。6月16日の夜のことでした。最期を見守っていたローリーは、甲高い悲しい声で鳴きながら、屍からは離れて、隣の部屋や窓辺に行ってニシガンを探しているようでした。『パックン』はウロウロ落ち着きなく歩き回り、港から一緒に来た臆病者で、いつもニシガンに庇ってもらっていた『シンバ』は、棚の上で固まってしまい、女の子たちも身じろぎもせずに高い所から見つめていました。

 

 

 

どんどん悪化していくニシガンに、付きっきりのローリーと、身の置き所がない様子のパックン。

 



この部屋には、伝染性白血病のキャリアがまだ10匹います。発症しないことを願いながらも、死後にニシガンの口から、大量の血性の吐物が溢れ出たことを見つめながら、今回のことで体得したことが幾つかありました。
ニシガンを今日、火葬して収骨してきました。お骨が入った袋を蓋付きの容器に入れて、みんなの食事と昼寝用キャリーやケージが並ぶ、押し入れを改造した棚の上に置きました。いつもみんなと居た場所です。

明日は不妊予防センターの開院日。隔週の開院になってからは、以前の1.5倍近くの手術をするために、前日から準備に追われます。残されたわずかな時間に、活動報告をちょこっと書き上げました。アニマルクラブ石巻に居る80匹余りの命のことを知ってもらい、支援してくださる方が一人でも多くなることを願いながら。


2024年6月19日

 

 

 

〘時の流れに翻弄される命〙

5月末の里親探し会に向かっていた車の中に、かかってきた電話〜随分懐かしい名前が表示されました。確か7年位前に、兄弟猫の里親さんになってもらったお宅のお父さんです。
会場に着いてからかけ直すと、力のない声で窮状を訴えられたので、びっくりしました。なんと、末期ガンであと少ししか生きられないそうです。最期を家で過ごしたいと戻っできたけれど、娘さんとも連絡が取れず、病院に戻るしかないので、猫を引き取って欲しいと懇願されました。明日訪ねる約束をして、電話を切りましたが、7年の歳月の間にすっかり様変わりしてしまった、そのお宅の状況を理解しかねていました。

翌日訪ねると、まだ50代のお父さんは、抗がん剤の影響か、すっかり髪もなくなって痩せ細り、ベッドから起き上がることもできずに、「申し訳ない」と繰り返すばかりです。ベッドの下から、大きくなった黒白の『パロ』が出てきました。昔から人なっこい子でした。
もう1匹の白猫『タマ』は2階の部屋に籠もりきりだとか。その部屋はドアに鍵がかかって入れないので、ベランダから入って連れて来るように言われました。

大きくて立派なお宅でしたが、今では荒れ果てていました。2階のベランダから回ると、その部屋のサッシが少し開いていたので、ドキリとしました。以前は娘さん達の部屋だったところです。子猫を迎えてはしゃぐ姉妹と見守るお父さん、お祖父ちゃん、家族のスナップ写真が、私の中でメラメラと燃えて、焦げかすが、風に転がされているような虚無感に苛まれながら、タマを探しました。
部屋の中は雑然として、ゴミが散らかり、猫のトイレはウンチだらけでした。お祖父ちゃんは亡くなったそうですが、ふたりの娘はどこに行ってしまったのでしょうか。
タマを見つけられなくて、一度降りてお父さんに聞くと、閉まっているはずのベランダのサッシが開いていたのなら、「外に出たのかもしれない、昨日から、上の部屋の音が聞こえてこないんだ」と頭を抱えてしまいました。いたたまれなくなって、私は再び2階に上がって、もう一度よく探しました。そして、見つけました!毛布の中に隠れていました。洗濯ネットで確保して、キャリーバッグに入れました。なんと、重いこと〜やっとこさ、階段を降ろしました。お父さんの安堵の表情に、こちらも胸を撫で下ろしました。
「パロは膀胱炎になりやすいから、念のため結石用の療法食を食べさせている」と持たせてくれて、猫砂の買い置きも持って行くように頼まれました。そして、「少なくて申し訳ない」と言いながら、2万円渡されました。「最後まで見てやれなくて、ごめんなぁー」と泣いていました。

重い重い猫ふたり、7年の歳月を経て、アニマルクラブに戻って来ました。仮設住宅で猫を増やして、復興住宅に移る際に、困ったおばあさんから押し付けられた母猫と5匹の子猫〜母猫と子猫3匹はそれぞれ良いお宅に巣立って行って、今も不妊予防センターに来てくれているから、この兄弟のことはたまに思い出して、気になっていたのです。
こんなに形で暮らしぶりがわかり、そして出戻って来るなんて想像もしなかったけれど、知った以上は、やり直せます。最初のうちは隠れていたタマも、まもなくすっかり甘えん坊になりました。
生きていればやり直せることを、生きる望みを閉ざされた人との約束だと思って、この子たちの幸せのために尽力したいと思っています。





毛布の下に隠れていたタマを発見、洗濯ネットに入れて、逃げられないように身柄を確保。




アニマルクラブに連れてこられてまもなくは、タマはベッドの下に潜っていました。





ずっしり重たい兄弟を、幸せ太りにしてくれる、あったかいお家はありませんか〜?