想念のブログ -2ページ目

天皇戦争責任問題検証 ❷


案の定、安保法案、とうとう強行採決されました❗️

戦前、立憲体制を済し崩しにし、軍事政権に移行した流れの様な感じです。

これは日本国民の目覚めの為の過程的現象として捉えれば、歓迎すべきことです。

しかし、国民が目覚めなければ、悲惨な道を辿る事に…。

参議院議員選挙が運命の分水嶺という気がしますので、微力ながらしっかり反応して行きたいと思います。



さて、僕のブログのテーマは、世界平和の旅(内観と共感)ですが、実は自身の心の中の宇宙と外側の宇宙とは連動しているんじゃ~?、とある時、感じました。

自分自身の心の中、若しくは自分達夫婦の姿に、今の日本の姿が映って無いのかという…。 逆も真なり。

ゆえに今の憲法改正賛成、反対は自分自身、または自身と周りの調和無くして解決無し。

これが結論です。

しかし、日本は1億2千数百万人で構成されていますから、その全体の意識次元が上がらない限り上がらないのも事実。

安倍さんを責めてるけど、自分はどうなの? 一挙手一投足を、またその刹那の想いをチェックすると、マズイこともあるな~、と。σ(^_^;)


がしかし、今の日本社会…、

今の国会に象徴される様に、これは国民の意識が割れているのを代表しているのが国会ですから、外から批評するだけでは済まず、自ら解決へ向けて歩み出さなければ、ならないなと。


右翼側 (強い日本、プライドある日本復活ーそれが子孫繁栄の基) と左翼側 (世界平和実現、弱者に優しい社会づくりー再び戦争してはならない) が、其々に噛み合わず、感情にも影響し食わず嫌いとなって、水と油みたいに歩み寄らず、いがみ合う状態。

その様な次元から、如何に話し合いが出来る様になり、相手の長所が見え、自分達の足らずを自戒出来る次元まで意識が目覚め、上がれるか❗️

それが、日本再生へのカギであるという自覚の元に、今ブログを書いております。



天皇の戦争責任問題検証 ❷

天皇が、戦争には反対だった。

そして、軍部の在り方にも。

しかし天皇は、あの時点でやむにやまれぬ思いで決意し署名された。

それは、元々有色人種差別意識があった欧米人の英米トップ、チャーチルとルーズベルトによる日本陥し入れ的なABCD包囲網による兵糧攻めで、武力に拠らない先制攻撃を受け、戦うか屈するか、二者択一の立場に置かれた日本。

衝突、避け難しの状況だった。
日本は、当時、米国から、石油、鉄鉱石、工作機械など、70~80%以上を輸入していたと聞く。

そして、国民の鬼畜米英やっつけろ的な追い風を受けた好戦的右翼がいた。
以下に、紹介する文藝春秋発刊の文庫版「天皇独白録」より抜粋


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【マッカーサー天皇会見録】

(日本では天皇が男と男の約束として語らなかった思われる内容)

アメリカのジャーナリスト、ジョン・ガンサーが書いた「マッカーサーの謎」によると…


マッカーサーが天皇と会見した時、次のような事が会話が交わされていた。

「天皇は今度の戦争に遺憾の意を表し、自分は『これを防止したいと思った』といった。

そして、マッカーサーは天皇の顔を見つめながら、『もし、それが本当とするならば、では何故その希望を実行に移すことが出来なかったのか?』と尋ねた。

すると裕仁の答えは、およそ次のようなものだった。

『私の国民は、私が非常に好きである。わたしを好いているからこそ、私が戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民は私を精神病院か何かに入れて、戦争が終わるまで、そこに押し込めて置いたに違いない。

また、国民が私を愛していなかったならば、彼らは簡単に私の首をちょん切ってしまったでしょう。』と。」

文春文庫「昭和天皇独白録」より

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このマッカーサーを通じて、昭和天皇が語られた御言葉からも分かるように、もし署名しなかったら好戦的右翼に軟禁か殺されることを察知しておられた。

しかし天皇が死を怖れて署名したんじゃないことは、以下のことで判る。

その後の終戦の御聖断、並びに、マッカーサー会見時の御決意
「自分自身の運命について、貴下の判断がいかようなものであろうと、それは自分には問題では無い。私は全責任を負います。」

その上に、
「戦争で苦しんだ国民が飢えているのはどうしても耐え難い。皇室にある物をすべて差し上げてもいいから、飢えに苦しむ国民を救って欲しい…」と嘆願され、

さらに後日には、
全国の国民を慰め元気付けたいと、全国御巡幸を御決意されます。

戦争で、子供や夫を天皇の名の下に失った悲しみを抱えるに国民。

普通ならば、中には、血の気の多く、どんな事態が待っているかも知れない中に、死を覚悟して、無防備に身を投げ出し、国民を慰められた昭和天皇だった。

 これは、個人的な僕の解釈ですが、もし、開戦の詔勅に、仮に署名せず、自分が軟禁されたり死ぬようなことになったら、国内はどうなるだろうかと天皇は考えられたに違いない。(海軍と陸軍の不調和もあった)

おそらく、意見がソ連寄り、アメリカ寄りとに分かれて分裂、次第に植民地化への悲惨な結末になることを予測されておられたことなどが、止むなく「開戦の詔勅」御名御璽をされた。即ち、開戦許可を出した昭和天皇のご心中の経緯だったのではと、この『マッカーサー天皇会見録』から、推察するには、さほど難しいことでは無いでしょう。

天皇戦争責任問題検証 ❶


前回のお話で、天皇が憲法9条のご発想者というショックな出会いのお話をしました。

ただ、いくら天皇が平和を求めていたとは言え、先の大戦は、天皇を中心に戦い、そもそも天皇が開戦の許可を出したはず…。

そんな天皇が平和を愛する人なんだったら、何故、許可したんだろう⁉️

という疑問がふつふつと沸きました。

一体、戦争はどういう経緯だったのか⁉️


全く無知でした。(^_^;)


そもそも、天皇には、政治に介入する権利や責任があったのか?

学生時代、うろ覚えでしたが、戦前の憲法は、立憲君主制だったと聞いた事があります。

正直、少しは理解しているつもりでしたが、キチンと分かっている訳ではありませんでしたので、公開ブログだし、責任を伴う為、迷路的な文献に埋没しそうになりながらも、色々勉強し直しました。
なので時間掛かりました。笑
(お陰様で勉強出来て感謝です。^^)

この先の大戦に対する解釈が、様々に分かれているので、日本の今現在、有識者の分裂が解消されません。

そして、この問題の解釈とこれからの私達の行動に、日本の子供達、否世界の子供達の未来が掛かっていますので、理解するのに不便でも、皆さん、この難問を避けて通らず、一緒に理解を深めて行きましょう❗️



大日本帝国憲法(俗に明治憲法)は、明治22年(1989)に伊藤博文、井上毅らによってプロイセン憲法(ドイツ)を参照し起草・制定された天皇を元首とした三権分立の立憲君主制。

確かに、戦争は天皇の名の下に行われて来ましたが、実質は「君臨すれど、統治せず」の言葉通り。


1930年代から、起こった天皇機関説と天皇主権説の対立が激化。

簡単に言いますと、
天皇機関説は憲法学者美濃部達吉さんらが提唱された説。
国家を会社の様な法人格に位置づけるならば、天皇はその責任者であり、運営は皆で行う的な考え。

天皇主権説は、所謂、狂信的な「天皇は神聖にして侵すべからず」
国家も国民も全て天皇に属する的な考え。

因みに昭和天皇ご自身は戦前から、憲法学者、美濃部達吉さん提唱の天皇機関説を受け入れておられた。

昭和に入ってから陸海軍は、天皇から直接、統帥(天皇の統帥権)を受けるのであって政府の指示に従う必要はないとし、満州事変などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示。(軍部の暴走)

特に1935年の大戦前に、その天皇主権説を固持する右翼的な人々がだんだん台頭し天皇機関説肯定者が排除される。
同時に大日帝国憲法による立憲政治はその実質を失っていったとウィキペディアには明記されている。

俗に云う大本営発表的な流れに以降して行ったと云える。(国民の士気を低下させない様、不利な状況にフタをして前進しているかの如く流すウソの発表)


〈開戦の詔勅(戦争開始宣言)に見られる天皇の思い〉

カギカッコ『』の所にご注目を❗️
~~~~~~
<現代語訳文>

神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。

私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、

私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、

一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。

そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、

その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。

そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。

『今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。

まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。』

中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。

さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。

米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。

あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の

平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、

米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。

ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。

 皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。

  御 名 御 璽

   平成十六年十二月八日

~~~~~~

この『』の部分、『この様な事態は私の本意では無い』と明言されている。

この発言は、当時戦いを推進する側とすれば、士気を低下させる恐れがある為、天皇に削除を進言された様だが絶対に削除してはならないと制止されている。

次回に続く…


自己の変遷【中翼への目覚め】



1993年、39才の自営業としての独立時、志を立ててやろうと決意❗️

家族を養う為に働くのは当たり前。
今のままの日本の延長では、いつか日本は無くなってしまうのでは⁉️

日本はきっと世界に役に立つことが出来るはず。
日本が本来の素晴らしさを発揮でき、世界と共に良くなる道が歩めるようにならないものなのか⁉️

そんな日本に目覚めさせられるリーダーは⁉️ (自分にはそんな力量は無いし…)

そうだ❗️
きっと、そういうリーダーが現れるに違いない。その時までに、その人物をサポート出来る、時間とお金を作って置こう❗️
その為にビジネスをやるんだ❗️


何故か、その時そう決意し出発。


そして、胸に希望を抱きながら、何でも屋を開業。

~詳細省略~

不思議と願いが叶い、2005年位から、ほぼ自由な時間が取れるようになっていました。


2008年夏、「天皇が憲法9条のご発送者なんです」ということを40年間訴えて来た、という人物に出会う。


この方は、河内正臣さんという呉市広在住、当時67歳の人。

僕は、日本の憲法はGHQに押し付けられた憲法だと聞いていたし、9条を無くし、憲法改正して強い日本にならないといけない、と思っていた人間だったので、ビックリし「本当ですか?」と尋ねてしまいました。


何故、自分が憲法改正派であり、右翼的な考えであったのか⁉️


それは88~93年の間、自民党のサポート組織としてあった、統一教会関連政治団体である勝共連合という団体の事務局員だったからです。


そして、その時の河内さんのお話しによると…、


憲法9条は昭和天皇がご発想され、幣原喜重郎元総理を通じて、マッカーサーにお願いして、現日本国憲法に入れさせた条文。とのこと。

その証拠が以下の官報
(官報とは、官公庁が打つ公用の電報)

(証拠資料❶:1946年3月5日官報)


中味を抜粋すると、昭和天皇から政府当局に発した命令文となっている。

「日本国民が正義の自覚に依て、進んで戦争を放棄して、国民の総意を基調とし、憲法に根本的の改正を加え、政府当局それよく朕の意を體し、必ずその目的を達成せよ。」
(日本国憲法発布は1947年5月3日)


俄かには信じられませんでしたが、その後の説明に感動しました。

:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:



「もし9条が昭和天皇のご発想ならば、自民党始め、日本の伝統文化を重んじる右翼改正論者は、天皇に反逆することになる。

また逆に、社会・共産・日教組などの左翼側は、天皇を長年戦争責任を追求。反天皇、反国家的な動きをして来ながらも、戦後一貫して9条を守って来ていること。結果、最大の功労者となる。


と云うことは、右翼は天皇を尊重しながらも天皇に反逆する道を選択し、また左翼は天皇の責任を追求する逆臣ながら、天皇の意向を護り続けた事になるというパラドックスが生まれる。


要するに、右翼と左翼は、平和を愛し9条を産み出した天皇を軸にするなら、50%と50%の功と罪を認めなければならない。」


そして「私達は、右翼でも左翼でも無く、中翼(仲良く)の道を行くべき」
と言われたのです。


左翼は青い色メガネ、右翼は赤い色メガネを掛けてお互いを観、歴史を観、事象を観て、水と油みたいに交われずにいるんだ。


日本が他国に尊敬されず、特に中国・韓国に付け入るスキを与える最大の原因は、決して日本に、武力が無いからではなく、国内が一体とならないからなんだ~、

と、そこに気付きました。

◎この感覚や視点は、直ぐに捉えにくい部分ですので、視点を変えて表現させて頂きます。

~~~~~~
以下、参照
安倍政権の集団的自衛権による憲法解釈改憲を危惧してのご発言と思われる、天皇皇后両陛下、並びに皇太子殿下による「憲法遵守」発言を語られている。(インターネット参照)



ー 平成天皇の御言葉 ー

『80年の道のりを振り返って、特に印象に残っている出来事という質問ですが、やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです。私が学齢に達した 時には中国との戦争が始まっており、その翌年の12月8日から、中国のほかに新たに米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校 の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったこ とを思うと、本当に痛ましい限りです。
戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。戦後60年を超す歳月を経、今日、日本には東日本大震災のような大きな災害に対しても、人と人との絆を大切にし、冷静に事に対処し、復興に向かって尽力する人々が育っていることを、本当に心強く思っています』



ー 皇后陛下の御言葉 ー

《5月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、 かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に 先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います》