「後鳥羽上皇」と「承久の乱」について、

200文字以内でまとめる。

尚、

「編纂した勅撰和歌集」

「乱当時の鎌倉幕府・執権」

「兵を集めた様子を表した時代祭行列(平安講社第4社)」

「流された場所」

「乱後に設置された鎌倉幕府の出先機関」

5つの名称を必ず含む事。

 

 

「編纂した勅撰和歌集」

上皇が、編纂した勅撰和歌集は、『新古今和歌集』。元久2年に完成するが、直後から手直し作業を開始し、承元4年頃まで改定を加えている。更に承久の乱で隠岐に流された後も上皇は大幅な改定を加え続ける。

 

「乱当時の鎌倉幕府・執権」

承久3年、上皇は乱当時の鎌倉幕府の執権、第2代執権・北条義時の追討を命じた。上皇挙兵に鎌倉御家人も動揺したが、源頼朝の正妻・北条政子が御家人を前に演説し、義時追討宣旨を幕府追討宣旨と読み替えた事により鎌倉の帰趨(キスウ・物事が落ち着く事)は決した。義時は政子の弟で伊豆の豪族・北条時政の2男。江間小四郎と呼ばれた。

 

「兵を集めた様子を表した時代祭行列(平安講社第4社)」

平安講社第4社が担当する時代行列は、「城南流鏑馬(ヤブサメ)列」の事で、平安講社第4社の中京区・下京区が奉仕する。平安建都講社は、時代祭の運営や維持保存をはかる団体。明治28年平安神宮が創建され、同年10月時代祭が始まった時、市民有志が組織した。以来、時代祭運営の中心を担っている。

 

「流された場所」

上皇が流されたのは「隠岐」で、現・島根県隠岐郡海士町である。乱の戦後処理は厳しく、順徳上皇は佐渡、六条宮雅成親王は但馬、冷泉宮頼仁親王は備前児島へ配流となり、土御門上皇は自発的に土佐に赴いた(2年後に阿波へ遷幸)。

 

「乱後に設置された鎌倉幕府の出先機関」

承久の乱後、「後鳥羽上皇」の異母兄・守貞親王が践祚(センソ・天子の位を受け継ぐ事)を経ずに後高倉院となり院政は継続されたが、幕府により乱後に設置された鎌倉幕府の出先機関として「六波羅探題」が置かれた。探題は北条氏一門から選任され、洛中警固・西国成敗・朝廷との交渉を主な任務とした。

 

 

以上をまとめると・・・

和歌に堪能であった後鳥羽上皇は、『新古今和歌集』を編纂し、文学史にも名を残している。政治的には朝廷と幕府の緊張が高まり、鎌倉幕府の執権・北条義時追討の院宣を発して西国の兵を集めた。この様子は、時代祭・城南流鏑馬列に再現されている。この承久の乱は上皇方の敗北に終わり、後鳥羽上皇は隠岐へ配流された。その後、幕府によって設置されたのが六波羅探題で、朝廷の監視・京都の治安維持などの役割を果たす事になる。