H27.55 「工芸」 西陣織について・・・
①「西陣織の起源と考えられる朝廷織部司 の後身にあたる織手同業者組織の名称」②「応仁の乱で西陣の名の由来である西軍を率いた人物」③「徳川政権の産業保護によって保有した高機の推定台数」④「西陣織機業者が織物の神を祀った今宮神社の末社」⑤「大正初期に展示卸売施設として建てられた 旧・西陣織物館(現・京都市考古資料館)を設計した人物」の名称を含み、150~200字以内でまとめる。西軍・山名宗全西陣織会館・本野精吾設計織姫社高級織物を製作していた朝廷の織部司は、保元・平治の乱の頃に廃絶し、職人の一部が大舎人町に住んで①大舎人座を結成し、綾織などの私機を営んだ。白雲村で営業を始めた練貫(ネリヌキ)方もあり、競争の時期が続いたが、応仁の乱による被害の少なかった大舎人座が優位に立ち、永正11年には練貫方を抑え綾織物生産の独占を確保した。応仁の乱の西軍の大将②山名宗全の陣地は堀川今出川上ルにあり、大舎人座・職人の主な居住地でもあったため、大舎人座の織物は「西陣織」と呼ばれ、固有名詞として定着し今に至っている。秀吉に続き家康も西陣織を保護し、西陣織業界に対する輸入絹糸の割当を拡張するなどの保護政策を続けた。その結果、享保年間の西陣織業界は③約7000台(推定)の織機を保有していたと考えられる。大徳寺の北に位置する今宮神社は疫病を鎮める「やすらい祭」で知られるが、江戸初期、氏子の西陣織業者の有志が織物の祖神を祭神とする「④織姫神社」を西陣の地に創建し、後に今宮神社の境内に遷して業界の繁栄・安全を祈った。大正3年、今出川大宮東に西陣織製品の展示・販売の施設として「⑤本野精吾」設計の西陣織物館(旧)が建てられた。日本のモダニズム建築の先駆と評価され、現・京都市考古資料館となっている。・・・まとめると・・・京都の織物業は朝廷内の織部司、更に後身の①大舎人座によって発展し、その拠点は応仁の乱で②山名宗全が西軍の陣を構えた事から西陣と呼ばれ、西陣織の名が誕生した。江戸期、徳川政権の産業保護を受けて繁栄した西陣織は③高機7000台を持つと云われ、西陣機業者は今宮神社に④織姫神社を祀り信仰した。大正初期に展示即売施設として⑤本野精吾の設計で建設された西陣織物館は、現在は京都市考古資料館として活用されている。