…穴穂部間人(アナホベノハシヒト)皇后は、

蘇我氏と物部氏の戦乱を避けるために

現・京丹後市丹後町間人(タイザ)に滞在し、

乱が収まった後、大和の地へ帰る時に

自らの名「間人(ハシヒト)」を贈ったとされている。

 

 

又、一説には

この地の出身であったとも云われている。

 

地元の人が「【55】間人」を「ハシヒト」と発音しては、

皇后の名を口にする事となり恐れ多いとして、

皇后の「退座」にちなんで、

そう発音する様になったとの伝承がある。

 

皇后滞在を示す遺跡は殆どないが、

『薬師堂記』には、

御所坪(ゴショノツボ)に皇后が滞在したとの記述がある。

 

 

 

これらの伝承を基に、

間人(ハシヒト)皇后・聖徳太子母子像が建てられている。