①「清河八郎率いる新選組の前身となった組織」

②「屯所となった八木家の当主」

③「会津藩の本陣のあった寺院」

④「襲撃した三条小橋の旅籠」

⑤「山南敬助の墓がある寺院」

を含み、150~200字以内でまとめる。

 

 

 

 

 

 

 

女性ながら浪士組・中沢琴

 

 

 

 

 

幕末、浪士は万延元年の桜田門外の変をはじめとして、要人や外国人の殺傷を繰り返しており、江戸幕府はその対処に苦慮していた。文久2年幕府はこれら浪士の中から有能な者を取り立てて、来たる西洋との戦争(攘夷)に従事させようとした。攘夷の具体的日程を天皇と話し合う為の将軍家茂の上洛が決まると、浪士取立ては具体化した。翌年2月、①浪士組約230名は、家茂護衛と大坂での対外戦争に備える為、先行して上洛。宿舎は洛中西端の壬生に置かれ、八木②源之丞(ゲンノジョウ)・方や前川荘司・方を宿舎とした。同年3月、浪士組本部は帰府するが、芹沢鴨や近藤勇ら約20名は認められて残留。③金戒光明寺にあった京都守護職会津藩・松平容保に所属し、禁裏守衛と政局混乱を防ぐ活動を開始した。この頃は壬生浪士などと呼ばれた。孝明天皇の意思により、同年「8/18政変」で長州藩が京都政局から排除されると、禁裏御守衛総督の一橋慶喜、守護職会津、京都所司代桑名藩松平定敬らがその意思を重んじて、長州復権を望む勢力と対峙する。これを一会桑(イチカイソウ)勢力と呼ぶ。新選組と名を改めた壬生浪士は、一会桑勢力下の精鋭軍事力として機能した。その活躍は親長州浪士たちを鎮圧した④池田屋事件、長州藩が復権を求めて挙兵した甲子戦争(禁門の変)などで知られる。局長近藤はこれを束ねる有能な政治家として京都で重きをなした。種々の事情で落命した隊士の墓碑が壬生の⑤光縁寺などに残る。

 

以上をまとめると・・・

新選組の前身となった①浪士組は、屯所となった壬生の②八木源之丞らの邸宅に分宿したが、引率した清河八郎が、隊を尊王攘夷運動に利用しようとしたため解散となった。しかし残った近藤勇らは、会津藩の本陣であった③金戒光明寺に出向き、藩主の許可を得て新選組が誕生する。以降、三条小橋の④池田屋を襲撃、尊王攘夷の志士を捕縛したりなどして名を挙げた。隊士は亡くなると⑤光縁寺に葬られ、総長を務めた山南敬助の墓も残っている。