…慶長12年に家康の侍講となり、
4代の将軍に仕え幕府の土台作りに関わり、
江戸忍岡の私塾は後に昌平坂学問所に発展する。
羅山の誕生地は、
祇園祭・南観音山で知られる【56】百足屋町町で、
邸宅跡を示す駒札がある。
百足屋町は、
新町通の錦小路から蛸薬師通までの両側に広がる地域で、「むかでやと云う屋号の豪商が住んでいた」
とされるのが町名の由来である。
新町通は古くから呉服の大店が軒を連ね、
祇園祭の南観音山も豪商らの財力が支えていた。
林羅山は建仁寺で学び、22歳で家康に謁見した。
大坂の陣に繋がった方広寺鐘銘事件に於ける
勘文(カンモン)作成に関わったとされる。
35歳から活動の中心を江戸に移し、
家光の時代には「武家諸法度(寛永令)」を起草している。
百足屋町には、
安土桃山期から京都3長者の一人とされた
糸割符商人で徳川家の呉服師
「茶屋四郎次郎」が屋敷を構えた。
茶屋家は初代清延(キヨノブ)から
6代180年間にわたり当町内に居住した。
明治・大正に実業家・政治家として活躍した
田中源太郎の邸宅も当町にあった。