大正4年・京都市教育委員会が
建立した東鴻臚館址を示す石標がある。
「【48】鴻臚館」は外国人を接待する為の施設で、
平安京に於いては羅城門の北側に
朱雀大路(現・千本通)を挟んで
東西対称に東西鴻臚館が建立された。
しかし、
弘仁年間に東西市が置かれるのに伴い、
七条北の石標のある現在地に移転した。
『源氏物語』桐壷の巻に鴻臚館の記述がある。
鴻臚館は主に渤海国をもてなしていたので、
延長5年に渤海国が滅亡するのに伴い衰退した。
大正4年・京都市教育委員会が
建立した東鴻臚館址を示す石標がある。
「【48】鴻臚館」は外国人を接待する為の施設で、
平安京に於いては羅城門の北側に
朱雀大路(現・千本通)を挟んで
東西対称に東西鴻臚館が建立された。
しかし、
弘仁年間に東西市が置かれるのに伴い、
七条北の石標のある現在地に移転した。
『源氏物語』桐壷の巻に鴻臚館の記述がある。
鴻臚館は主に渤海国をもてなしていたので、
延長5年に渤海国が滅亡するのに伴い衰退した。