「大覚寺ゆかりの第52代天皇」

「歴代天皇の写経が納められている建物」

「東福門院和子の女御御殿を移したとされる建物」

「日本3代名月観賞地の池」

「名古曽の滝を歌に詠んだ小倉百人一首の歌人」

の名称を含み、150~200文字以内でまとめる。

 

 

真言宗大覚寺派の本山・大覚寺は、第52代嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院がその前身で、天皇が没し約30年後の貞観18年、皇女・正子(セイシ)内親王(淳和天皇皇后)が寺院に改め、恒寂(コウジャク)入道親王(淳和天皇皇子・嵯峨天皇皇孫)を門主(初代住職)に迎え開創した。

皇室との関わりが深く、境内の伽藍からもそれが窺がえる。特に弘法大師の勧めで嵯峨天皇が浄書したものをはじめ、後光厳・後花園・後奈良・正親町・光格各天皇が書写した般若心経が勅封(60年に1度開封)として勅封心経殿(チョクフウシンキョウデン)に納められており、般若心経・写経の根本道場として広く信仰を集めている。

鎌倉末期に後宇多法皇が院政を行ったのが正寝殿(ショウシンデン)。江戸期に後水尾天皇より下賜された宸殿は、天皇に入内(ジュダイ)した徳川2代将軍秀忠の娘・東福門院和子が女御御殿の宸殿として使用していたものである。

又、日本3大名月観賞地と称されるほど、月見の名所として名高く、唐の洞庭湖を模して造られたとされる大沢池は、毎年仲秋の名月に合せて観月の夕べを開催、王朝の風雅を味わえる観光イベントとなっている。

かつて大沢池に注いでいた名古曽滝(ナコソノタキ)は、小倉百人一首に採られた藤原公任の「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど  名こそ流れて なほ聞こえけれ」の歌の通り、平安中期には涸れていた様だが、池の北側には「名古曽滝址」の碑と共に発掘調査で見つかった遺構が復元され往時の面影を今に伝えている。

 

 

以上をまとめると

大覚寺は第五十二代天皇・嵯峨天皇の離宮に始まり、恒寂法親王を開山として寺院となった。嵯峨天皇が都の安寧を願って奉納された歴代天皇の写経を納める勅封心経殿をはじめ、東福門院和子使用の女御御殿を移して宸殿とするなど、皇室ゆかりの寺院の風情が境内に色濃く残る。嵯峨天皇の時代に造られたとされる大沢池は日本三大名月観賞地として知られ、藤原公任が小倉百人一首に詠んだ名古曽滝跡が国の名勝に指定されている