「道真を重用した天皇」

「寛平6年に廃止した使節」

「道真の政敵であった左大臣」

「道真の父」

「道真の母を祀る北野天満宮の末社」

の名称を含み、150~200文字以内でまとめる。

 

菅原道真は幼少の頃より学者としての資質を現わし、官界に入った26歳の頃から彼の名は朝野に名高かった。

式部少輔(シキブショウユウ)・文章博士(モンジョウハカセ)と云う父祖も任ぜられた職へと進み、仁和2年讃岐守となり赴任。任を終え京に戻ると「宇多天皇」の時代となっていた。

宇多天皇は、清和・陽成2代の幼主の間に権力を持った藤原氏の勢いを制する為に道真を重用して期待した。

道真は寛平6年、遣唐使に任ぜられながら、建議して、遣唐使の派遣を差し止めた。

唐の政情が不安定だった事、派遣の困難さなどの理由があるが、政界が彼の不在を許さなかったと思われる。

宇多天皇が醍醐天皇に譲位すると道真は更に重用され、右大臣・右大将に任じられた。

左大臣藤原時平と並んで新帝を支えた。

道真の栄達は時平の反発を買い道真女の所生である新帝の弟を擁立する動きがあると讒訴(ザンソ)され、延喜元年、にわかに大宰権帥(ダザイノゴンノソチ)に左遷された。任地に赴き3年で死没。道真没後、時平や東宮の夭死(ヨウシ)、内裏清涼殿が被雷するなど、道真の祟りと恐れられ、北野天満宮に祀られた。

道真の父は、学者の菅原是善で、上京の菅原院天満宮神社は道真が生まれ、先祖3代が住んだ地と伝わり、道真・父の是善・祖父の清公(キヨトモ)を祀る。

道真の母は伴氏(トモウジ・大伴氏出身)で、北野天満宮・末社の伴氏社に祀られている。

彼女は仏教信仰に篤く、賢母の誉れが高い。伴氏社の鳥居は3珍鳥居の一つで、石鳥居の柱が蓮華台に乗っている。

鎌倉期の作で国の重要美術品となっている。

 

 

以上をまとめると

菅原道真は宇多天皇に重用され、博識多才な人物であった為、遣唐使に選ばれるが、労多く益が少ない事から廃止を進言した。その後、政敵でもあった左大臣・藤原時平の讒言にあって大宰府に左遷され、悲運の生涯を終えた。菅原氏の邸宅の在った地には、道真の父・菅原是喜らを祀る菅原院天満宮神社がある。又、自身が祀られた北野天満宮の参道には、母を祀った伴氏社が建立され、その鳥居は京都三珍鳥居の一つとされている。