文久2年以来、

大政奉還による政権移譲が

理想的であると広く認識されてきた。

 

慶応3年5月以前、

土佐の中岡慎太郎や薩摩の西郷隆盛も

希望したが実現しなかった。

 

同年下半期、

それをあきらめた薩摩を中心に

挙兵計画が進められるが、

土佐派は諦めず薩摩の同意を得て、

老公・山内容堂の名で建白書が作成された。

 

 

 

同年10/3参政後藤象二郎・福岡藤次(孝弟・タカチカ)

が老中板倉勝浄(カツキヨ)にこれを提出、受理された。

 

実現したのは14日の事である。